女性の芸能人の不倫を報じることはいるのか―(男性よりも)女性の芸能人の不倫にとくにきびしすぎないか

 有名な女性の芸能人が、不倫をした。そのことが大々的に報じられている。

 女優が不倫をしたことを、どのように見なせるだろうか。

 結婚は、二者による。不倫は、二者たす一人(または複数人)だ。恋愛なんかは、二者だとあまり燃えづらい。三者になってはじめて燃えあがる。欲望が高まる。

 実定法なのが結婚だ。形を重んじる。それよりも愛を重んじるのが自然法だ。結婚しても、愛が冷めてしまったとすると、それでも結婚の制度を重んじるのが実定法であり、そうではなくて気持ち(愛が冷めたこと)を重んじるのが自然法である。

 芸能人の不倫を、報道で報じる。それは、けんぜんなやじ馬の精神だとは言えそうにない。

 構築主義(constructionism)の点で見てみると、芸能人の不倫を報じるのは、客観や本質として悪いことだとまでは言えないことかもしれない。そうはいっても、あるべきまっとうなやじ馬の精神であるとはいいがたい。

 報道がもつべきやじ馬の精神は、公共性をふまえたものであることがいる。芸能人の不倫は、開かれたもの(open)でもないし、公のもの(official)でもないし、人々に共通なもの(common)でもない。

 まったく芸能人の不倫を報じるなとするのは言いすぎだから、少しは報じてもよいかもしれないが、公共性によることがらとは言えそうにない。もっと公共性によるものについて、やじ馬の精神をはっきすることが報道にはいる。

 政治家のように明らかな公人であるとは言えないのが芸能人だろう。少しだけ公人の性格をもつのはあるけど、準公人のようなものであり、どちらかといえば私人や民間人に当たるのが芸能人だろう。

 娯楽の情報に当たるのが、芸能人の不倫だ。日本の報道は、娯楽の情報が多すぎる。問題の解決の情報がとても少ない。楽しさがあるのが娯楽の情報のよさではあるが、パンとサーカスのようになってしまうのが欠点だ。

 かた苦しいことを言ってしまうのはあるけど、報道で、問題の解決の情報をもっと増やすようにしないとならない。情報が娯楽化しやすいのが日本の報道だ。それによって、情報の政治性(意図性、作為性)がおきているのは見すごすことができそうにない。

 参照文献 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『自分でできる情報探索』藤田節子 『丸谷才一と十六人の東京ジャーナリズム大批判』丸谷才一 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『法哲学入門』長尾龍一