未成年(女子の中学生)の水着の撮影会は、良くないものなのか―やるべきではないことなのか

 女子中学生が、水着の撮影会をやることは良くないことなのだろうか。するべきではないことなのだろうか。

 水着の撮影会を禁じてしまうと、女子中学生の仕事をうばう。仕事ができなくなってしまう。そうしたことが言われている。

 とりしまる法律がないのだとすると、水着の撮影会は許容されることになる。許容せざるをえない。そうしたことも言われている。

 たしかに、形式論である、法律をもとにしてものごとを見ていったほうが、よりしっかりとしたものになる。形式論をぬきにして、実質論としてそれが良いことかどうかを言ってしまうと、形式の支えがないから(いっけんすると強そうであっても)うったえがやや弱い。

 必要性があるものであれば、許容されたほうが良いことが中にはある。女子中学生が水着の撮影会をやるのは、必要性があることなのかどうかがぎもんである。

 構築主義(constructionism)で見てみると、女子中学生が水着の撮影会をやることのよし悪しは、社会の問題(societal issue)だ。

 本質や客観にあるとはいえないのが社会の問題だ。女子中学生の水着の撮影会に関心がある人にとっては、それが社会の問題である、または問題ではないといったことをとり上げることになる。まったくそれについて関心がない人にとっては、とくにどうでもよいことに当たるかもしれない。日本の国の根幹をゆるがすようなことに当たるとは言えそうにない。

 かりにいまはとりしまる法律が無いのだとしても、色々な人たちによってそれがまずいことだとされることになれば、新しく法律が作られることになることがある。政策がなされることになる。

 それが悪いことであるのなら、新しくそれを禁じる法律が作られることがあるから、いまはとりしまる法律が無いからといって、それをどんどんやったほうが良いとは必ずしも言い切れそうにない。

 水着の撮影会を、やるべき派と、やらないようにするべき派があるとすると、その二つの派のどちらが正しいのかは、すぐには決められないかもしれない。二つの派でいろいろに言われている言説を、色々に見て行く。さまざまな言説に接して行く。そうするようにして、そのあとでどうするべきなのかを決めるのでも必ずしも遅くはないだろう。

 たとえいまの時点ではそれを禁じる法律がなかったとしても、形式論をぬきにして、実質論として良くないものについては、それが良くないことであると言うことはできる。実体として、じかにそれが良くないことであることを言うことがなりたつ。

 多くの人が実体として良くないものであると見なすものであれば、あとから形式である法律が作られることになりそうだ。実体が先で、形式があとからついてくることもあり、あとから形式の支えができあがり、(支えができ上がることで)実体が強まることもあるかもしれない。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『社会問題の社会学赤川学 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)