日本は、美しい国柄なのか―国柄の構築性(人為性、人工性)

 美しい国柄によるのが日本だ。それを保ちつづける。その義務が、政治家にはある。与党である自由民主党の政治家はそう言っていた。

 自民党の政治家が言うように、日本は美しい国柄なのだろうか。そういった国なのだろうか。

 英語に翻訳するとしたら、どういうふうに訳すのかがよくわからないものなのが国柄の語だ。そう言われていた。英語に訳しづらい語だ。わけのわからないものなのである。国体の語もそうだ。

 国体の語は、戦前においてよく使われた。抽象の語なのがあったので、意味が定まっていなかった。修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいっていたのだ。心でっかちな語だ。

 戦争に負けて、日本の国体は変わったのか、変わっていないのか。それが論じ合われた。戦争に負けたあとでそれが論じ合われたのがあったという。天皇制は、戦前の神聖から、戦後は象徴になったから、日本の国体は戦争の前とあととで変わったのだといえるだろう。戦後の日本の国体は、アメリカを天皇とする天皇制だ。

 思想の傾向(ideology)になっているのが、国柄を持ち出すことだろう。国家主義(nationalism)におちいることになる。国の公が肥大化して、個人の私を押しつぶす。そうしたあり方になるのがあるから、批判をすることがいる。

 国柄をもち出すのは思想の傾向におちいることになるのがあり、現実とずれたものになってしまう。

 日本の国柄では、性では、男性が優で女性が劣になっている。そうした階層(class)の格差によっている。性の多数者をよしとして、性の少数者を否定するあり方だ。性の階層の格差があるのが日本の国柄だから、あたかもそれが自明なことであるかのようにはしないようにしたい。

 構築主義(constructionism)で見てみると、自然なものとは言えないのが国柄だ。美しい国柄なのが日本だとするのは、日本のありようを自然化することになる。それを脱自然化して行くことがいる。

 人為や人工で作られたものが日本の国なのだから、自然なものではない。人々によって作られたものなのが日本だから、あり方を変えることがなりたつ。より良いあり方に変えて行く。悪いところをどんどん見つけて行って、問題化して行く。問題を見つけて行くことがいる。

 人よりも国が先に来てしまうと、本質主義におちいってしまう。国が個人に先だつ。

 本質主義によるのではないのが構築主義だから、国が個人に先だつのではないのをよしとする。国の公が肥大化するのを防いで、個人の私を重んじて行く。それぞれの個人のちがったあり方をよしとして行く。

 客観主義によるのではないのが構築主義であり、客観として日本の国柄はこうなのだとは言えそうにない。人によっては、日本の国はよいあり方だとするのがあるだろうし、そうではなくて悪いあり方だとするのもある。それぞれの人の主観による。

 客観とはいえないものであり、表象(representation)したものにすぎないのが日本の国柄だ。心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象だ。表象したものなのが、美しい国柄としての日本だ。それを改めて見ると、ぎもんふがいくつも付く。

 じっさいの現実(presentation)とはずれた表象になっているのがあり、みにくいところや汚いところを色々にもつのが生の日本だろう。美しい国柄であるものとして、日本の国のことを象徴化(symbolize)や抽象化することはできそうにない。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修