新しい戦前と、戦前と戦後の区切り―戦後の民主主義と憲法を見なおす

 新しい戦前になる。芸能人のタモリ氏は、今年についてをそう言っていた。

 新しい戦前にしないためには、どのようにするべきなのだろうか。

 戦前は、戦争がおきる前に当たる。

 戦争がおきる前であるのが戦前だが、戦争とは何かといえば、革命に当たる。一つにはそう見なせる。戦争革命説だ。歴史学者E・H・カー氏による。

 戦争がおきると、革命がおきることになる。そのあかしとして、日本における民主主義は、たんなる民主主義なのではなくて、たえず戦後の民主主義に当たるものだ。民主主義、つまり戦後の民主主義なのである。

 いまの日本の民主主義は、つまり戦後の民主主義に当たるものだけど、それがこわれている。戦争がおきて、革命がおきたことによって、戦後の民主主義がおきたけど、それがこわれているのがいまの時点だろう。

 戦争で革命がおきる前(つまり戦前)のあり方にもどってしまっている。それが、新しい戦前の意味するところだろう。

 新しい戦前と言ったさいに、そこで浮きぼりになってくるのは、民主主義つまり戦後の民主主義である。そのように見なしてみたい。

 たとえ戦争で革命がおきて、戦後の民主主義がなされても、それは一つの極であるのにすぎなくて、ゆり戻しがおきてしまう。ふり子が極から極へと動いて行くように、もう一つの非民主の極へと動いていってしまう。政治の右傾化だ。反自由の政治である。

 いまは非民主の極へと動いていっていて、政治が右傾化しているのが日本だけど、それを民主の極へともどすようにして行きたい。民主の極へと行くようにすることが、新しい戦前にならないようにすることに当たる。

 民主の極へと行くようにするさいに、民主主義つまり戦後の民主主義であるのをくみ入れるようにしたい。

 戦後の民主主義では、それのもとになるものとしていまの日本の憲法がある。いまの日本の憲法では民主主義がよしとされているのがあり、憲法をよしとすることが民主主義をよしとすることにつながる。

 いまの日本の憲法をいまいちど見なおす。憲法によって言われている普遍の価値をあらためて見直すようにして、そのうちの一つである民主主義をよしとして行く。

 民主主義は、たえざる民主化をすることだから、いろいろなところを民主化して行くようにしたい。とくにいまの日本では情報の点で民主化がいるのが大きい。情報の統制が、上から行なわれてしまっているのがいまの日本だろう。それを改めるようにして、情報の民主化をしないとならない。

 新しい戦前にしないようにするためには、いまの日本では、民主主義のうちで、とくに情報の民主化をすることがいる。報道なんかでは、戦前のように大本営発表が行なわれてしまっているのがあり、客観で正確な情報をすばやく国民に伝えることが行なわれているとはいえそうにない。報道の自由とか、国民の知る権利がしんがいされているところがある。

 政治家は国民そのもの(presentation)ではなくて代理であり表象(representation)だから、うそをつくことがしばしばある。いまの日本の政治では、政治家がうそをつくことがすごく多くなっていて、うそがまかり通っている。

 政治において、表象である政治家が言うことが、そのまま通ってしまっていて(報道でたれ流されていて)、それへの批判が足りていない。どんなときでも、政治家が言うことへの批判は必要だ。政治家がうそをついていないかどうかをつねに批判して警戒することがいる。

 西洋語に比べると、日本語は客観で正確な情報をすばやく伝えるのに劣っている。日本語は言葉としては低文脈(low context)なのがあり、西洋語のように高文脈(high context)ではないから、情報の明示性が低い。そのぶん、日本は文化が高文脈であり、同質さや画一性が高く、空気を読んでそんたくすることが行なわれる。

 日本の報道は、情報の中に意図が多く入っていて、ゆがみ(bias)が大きい。そうしたことが多いから、情報を受けとるさいに、受けとる人がゆがみを自分でとり除かないとならないことが多い。情報の意図性や作為性や政治性が関わってくる。

 参照文献 『近代日本の戦争と政治』三谷太一郎 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『右傾化する日本政治』中野晃一 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利(はんどうかずとし) 保阪正康(ほさかまさやす) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和