性の少数者についての法と、よい法と悪い法―法のよし悪しと立ち場性(左派か右派か)のちがい

 性の少数者についての法が作られた。LGBT 理解増進法である。

 じっさいに作られた LGBT 理解増進法についてを、どのように見なせるだろうか。

 じっさいに作られた法は、現実論のものだ。それとは別に、理想論としての法をとり上げてみたい。

 かりに、理想論としての法が作られたと仮定してみると、それにたいして、右派からの批判がおきそうだ。右派からすると、すごい悪法が作られたことになっただろう。

 現実論としてじっさいに作られた法は、それが法であるとできるのにとどまる。実証主義からすると、それが法である、の事実を言えるのにとどまる。何々であるべきの価値については、人それぞれによって見なし方がちがう。左派にとってはよい法であったとしても、右派にとっては悪法だといったようなことがおきる。

 法をつくるのは、立法であり、それは立法府がになう。それだけではなくて、それと共に、意思の疎通(communication)の行動がいるのがある。合意を目ざす対話が、意思の疎通の行動だ。

 意思の疎通の行動は、交通の行動だ。交通論からするとそう見なせる。

 交通の行動が欠けたままで、立法で法をつくるのだと、左派にとってはよい法でも右派にとっては悪法だといったことがおきる。ぎゃくに、右派にとってはよい法でも左派にとっては悪法だといったことがおきてしまう。

 立法をするとちゅうの過程で、はじめの法案が修正された。とちゅうで中身が修正されて、左派よりだったものが右派よりになったのがある。中身が骨抜きにされた。

 左寄りだったものが右寄りになったので、法が作られるとちゅうの過程で、交通の行動がなされたのだと見なせるのがあるかもしれない。交通の行動をへて、合意を目ざす対話がなされた上で、法が作られた。ものすごく甘く見なせば、そう見なせるのがあるかもしれない。

 きびしく見てみると、まったく交通の行動がなされないままに、法が作られた。交通の行動が欠けた中で、法が作られてしまった。

 もしも交通の行動がちゃんと行なわれていれば、左派だけにとってよい法だとか、右派だけにとってよい法といったことにはなりづらい。

 いまの日本の政治では、交通の行動が欠けたままで法が作られることがほとんどだろう。力の関係としては、右派のほうがうんと強いから、右派にとってだけよい法で、左派にとっては悪法に当たる法が多く作られている。

 左派にとってはよい法だけど、右派にとっては悪法だといったような法は、いまの日本ではほとんど作られることがない。かりに、左派にとってだけよい法が作られるのだとしても、それはそれできびしく見れば交通の行動が欠けていることをしめす。

 右派にとってみれば、そもそもの話としては、すごい右派よりに中身が修正されたとはいえ、LGBT 理解増進法がまったく作られないほうが良かったのがあるだろう。アメリカに言われて、しぶしぶ、いやいやで日本が作った法だ。

 そもそもこうであるべきだといった、大前提となる価値観がある。それが左派と右派とではちがっている。だから、交通の行動をすごいしっかりとやらないとならない。

 交通の行動が欠けた中で法を作ってしまうと、どちらかの派にとってはすごい悪法が作られることになってしまう。半分はよいけど、半分は悪いものが作られたことになる。集団の中が分断化や分裂化する。それを防ぐためには、交通の行動をしっかりとやらないとならない。橋わたし(bridging)をしっかりとやらないとならない。

 参照文献 『人を動かす質問力』谷原誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『右傾化する日本政治』中野晃一