新宗教と、報道のあるべきあり方(正義論)―ウェブのほうが、報道として機能していて、情報に民主性がある

 政党と、韓国の新宗教(旧統一教会)とが関係し合う。交通し合う。

 日本の政治が、新宗教に汚染されていることを、どのように見なせるだろうか。

 新宗教の汚染についてを、正義論の点から見てみたい。

 正義論では、ウェブと、大手の報道機関とを比べて見られる。

 こうあるべきだといえる理想論がある。理想論を言うのは正義論をもち出すことだが、それにたいして現実論がある。理想と現実とのあいだのみぞがどれくらい開いているのかだ。みぞが大きく開いていれば、問題があることをしめす。

 ウェブのほうが、正義論において正義により近い。大手の報道機関は、正義から遠い。

 ウェブのほうが、新宗教への関心が、いぜんから高かった。ウェブでは、与党である自由民主党新宗教とのつながりが、ずっと前から言われていた。

 大手の報道機関では、韓国の新宗教のことをとり上げることがなかった。安倍晋三元首相が殺される事件がおきたことによって、ぐうぜんに新宗教がとり上げられ出した。とり上げるのが、遅きに失している。

 情報の政治の点から見てみると、ウェブのほうが、情報が民主化されている。いぜんから、自民党と韓国の新宗教との関係がとり上げられていた。

 上から情報が統制されてしまっているのが、大手の報道機関だ。報道の自由がなくなっている。報道できることにかぎりがあり、制約が大きい。

 ウェブのほうが、どちらかといえば国民に近い。大手の報道機関は、国民から遠さがあり、距離が開いている。大手の報道機関は、国の言いなりになっていて、国との距離が近い。

 報道の機能では、ウェブのほうが、報道として機能している。新宗教のことについてはそう見なせるのがあり、大手の報道機関は、新宗教のことについては、報道として機能していない。一部のところ(一部のテレビ番組など)しかがんばれていなくて、その他の多くは機能の不全になっている。

 ここぞといったときに、そこに力を集中して入れて行く。判断をきかせて行く。選択と集中のように、ツボ(急所)となるところに、大きな力を注いで行く。そういったことが、大手の報道機関はできていない。

 自民党と韓国の新宗教との関係は、ツボにあたるところだろう。そのツボにたいして、そこに力を入れるべきだと判断して、大きな力を注いで報道して行く。それをやるためには判断力を持っていないとならないけど、判断力が欠けているのが大手の報道機関だろう。国の言いなりになっているから、判断力が鍛えられていない。

 自律性(autonomy)によらないと、判断力は鍛えられないが、他律性(heteronomy)におちいっているのである。自分から動くのではなくて、他つまり国に動かされているのだ。他つまり国の言っていることを、そのまま下にたれ流す。

 とりあえず、おざなりに、ツボを押さえておこうといったふうなのが、大手の報道機関のあり方だろう。形としていちおうツボを押さえておくのにとどめる。表面の浅いところだけ押さえておく。表面から、さらにふみこんで、深くまで見て行こうとすることがいるけど、それをやる動機づけ(motivation)がうすい。国の言いなりになっていて、国が言っていることではないことにたいしては、動機づけをもっていないからだろう。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司