テレビによる新宗教の報じ方の、よし悪し―なん派な報じ方と、こう派な報じ方

 テレビで、新宗教の集団をとり上げることに、どういったよさや悪さがあるだろうか。

 テレビがもつ欠点としては、話題としてとり上げられていることに関わる人たちに、一方的に押しかけて行く。関係者をテレビに映して、へいおんな日常をかき乱す。興味本位で引っかき回す。そうした短所があるのが言われていた。

 日本のテレビの世界がもつ欠点としては、なん派によりすぎているところだ。こう派なところが少ない。

 もともとテレビは(新聞や固い雑誌に比べて)なん派な媒体ではあるけど、こう派なテレビの番組がほとんど無くなっている。

 なん派なあり方だと、それのよさはあるものの、悪さとしては娯楽の情報にかたよることになる。

 こう派なあり方のよさは、問題の解決の情報を流すことができるところだ。

 日本のテレビの世界は、娯楽の情報にかたよりすぎていて、何でもかんでも娯楽のようにあつかいすぎている。問題の解決の情報がすごく少なくなってしまう。

 いまはテレビなんかで韓国の新宗教(旧統一教会)のことがあつかわれているけど、そこにも、日本のテレビの世界の欠点があらわれ出ている。

 きちんと問題の解決の情報として、韓国の新宗教のことをとりあつかっているテレビ番組があるけど、それはまっとうな番組だ。

 それにくわしい専門性がある人を番組に出演させて、それでやるのであれば、問題の解決の情報を流せる。そんなに知識がないしろうと(または専門外)の出演者がいい加減なことを言うことが許されてしまうと、娯楽の情報を流すことになりやすい。

 いろいろに見ていて面白い番組が作られているのが日本のテレビの世界であり、それは良い面ではあるけど、娯楽の情報にかたよりすぎているのが、良さでもあり悪さでもある。娯楽は、祝祭性があって、楽しいものではあるけど、しんこくな固いものをあつかうのには向いていない。

 娯楽によるのだと、楽しければ良いといったことになって、色々なものを良しとしてしまいやすい。色々なものを肯定してしまいやすいのがあって、そこから、韓国の新宗教のことを肯定することが言われることになる。肯定することも中には(色々にある意見の一つとして)言われてよいのはあるけど、それだと順応主義になってしまうのがあり、現実を批判としてきびしく見て行くことができない。

 なん派になりやすくて、こう派さが欠けるのがもともとあるけど、日本のテレビの世界が、もっと問題の解決の情報を重んじるようにしていれば、韓国の新宗教はそこまで力を持つことはできなかっただろう。日本の政治の中枢に、新宗教が深く食いこむことは避けられただろう。

 テレビの責任(公共性の責任)があるとすれば、それはこれまでに問題の解決の情報を重んじてこなかったことであり、娯楽の情報にかたよりすぎてきた。それで順応主義におちいることになっていて、現実をいろいろに批判で見て行くことがおろそかにされてきている。

 テレビがちゃんとしていれば、韓国の新宗教が、もっとずっと前の時点で、きびしく批判されていて、国によってカルト(cult)の新宗教をとり締まる動きが早くに(速くに)なされていたことが見こめる。もっとカルトの新宗教にきびしい報道が、テレビによって(いまの時点ではなくて)ずっと以前からなされていてもよかったのがある。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『自分でできる情報探索』藤田節子 『情報政治学講義』高瀬淳一 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一