結婚で、同姓だけなのと別姓にできるのとどちらがよりよいのか―家族のあり方を見てみる

 男性と女性が結婚するときに、強制に同姓にさせられる。日本ではそうなっているが、それを改めて、選択の別姓ができるようにして行く。そうすることはいることなのだろうか。

 結婚をするさいに、強制に同姓にさせられるのと、選択の別姓ができるのとを比べてみたい。強制の同姓だと、強制であることから、上から無理やりに力によって決めつけてしまっている。そこには自由がない。

 選択の別姓であれば、強制がないから、そこには自由がある。自由は価値だから、自由ではないよりも自由であったほうがより価値が高い。自由を保障するほうがよりよい。価値が低いものよりも価値が高いものにしたほうがのぞましい。

 同姓か別姓かは、人が人為でつくったものだから、本質主義によるものではなくて構築主義によってとらえられる。強制の同姓は本質によるものではないから、変えようと思えば変えられるものだ。不変で固定されたものではない。

 日本のあるべき家族のあり方からして強制の同姓のほうがよいとされるのがある。このさいに、日本のあるべき家族において、家族のところをとり上げてみたい。

 男性と女性が結婚をして家族を作るさいに、はじめのときにはお互いに愛があるが、しだいにその愛が冷めてしまうことが少なくない。経済学でいわれる、限界効用逓減(ていげん)の法則がはたらき、効用がしだいに下がって行く。はじめのときは愛があるから家族を保ちやすいが、しだいに愛が冷めて行くと家族を保ちづらい。家族が壊れることになる。

 目的は何なのかを見てみると、家族を保つことが目的なのではなくて、個人が幸福になれるかどうかが目的としてとれる。形として家族が保たれていても、その中の個人が幸福ではなくて不幸なのであれば意味がない。

 天皇制でいえば、むかしは天皇は日本の国における父親だとされていた。天皇が父親で、その下の国民は子どもたちまたは赤子たちだとされていた。戦争が行なわれた中で、父親である天皇はまちがった判断をしたが、天皇は生きのびて、その下の子どもや赤子に当たる国民の多くが害や損を受けた。国民に不幸をもたらしたのである。天皇制は不幸をもたらす家族だったのである。

 いまの天皇制では、天皇制を保ちつづけることが目的化されているが、天皇家の中の皇族の人たちがみんな個人として幸福に暮らしているとは言えそうにない。天皇家の中にいさせられていて、しばりつけられている。天皇家のあり方は、個人がのびのびと生きて行けて、幸福になりやすいあり方になっているのかといえば、そうとは言えそうにない。

 個人を幸福にして、個人が安心できるようであることがいるのが家族だ。理想論としてはそうだが、現実論としてはその逆のことが少なくない。家族の中は危険性が高くて、ぶっそうである。子どもにたいする虐待が多くなっている。家庭内暴力(domestic violence)が増えている。

 家族の中では、強者と弱者のうちで、弱者が守られることがいる。そうでないと、虐待や家庭内暴力がおきてしまう。機能不全家族になっていると、家族の中の個人が傷つくことがおきてしまう。個人を不幸にしてしまう。

 いまの時代は、個人の生のあり方が多様化しているから、家族のまとまりを保ちづらい。ばらばらになりやすいのがあり、家族の中を統治(governance)しづらい。無理やりに家族を保ちつづけようとすると無理がおきかねない。

 近代の家族のあり方は、父と母と子による。父にたいして子はエディプス・コンプレックス(Oedipus complex)をいだく。近代の家族の物語(family romance)だ。日本の家族のあり方にもそれがはたらいていて、父権主義(paternalism)になっていたり、男性が優位で女性が劣位に置かれるあり方になっていたりする。そこを改めることがいる。

 日本の家族は、日本の国に都合がよいようなあり方になっている。家族は国家のイデオロギー装置の一つだから、国に都合がよいような主体が家族によって生産されることになる。国がやるべきことが、家族に押しつけられている。家事労働は賃金が支払われないから、不払い労働(unpaid work)をさせられる。家族の中の個人が不幸になることのもとの一つになっている。

 アメリカではいぜんから家族の崩壊が深刻なのがあるとされるが、日本もまた同じであり、家族の退廃(decadence)がおきている。退廃しているところを見て行くことがいる。家族がかならずしも個人を幸福にするのではなくて、その逆に個人を不幸にしてしまっていることが少なくない。

 日本の国では、かくあるべきの当為(sollen)が好まれるのがあるが、そうではなくて個人が自由であることをよしとしたい。日本の家族はこうあるべきだのかくあるべきによるのではなくて、もっと個人が自由でいられるようになればよい。個人が自由でいられるようにして、どういった家族であってもよいようにする。

 人間ではなくて動物が家族の一員であってもよいのだから、家族はどういったものであってもよいはずだ。それぞれの個人が好きにいろいろな家族を作ったり壊したりできて、家族に参与したり離脱したりができやすくなればよい。それらが気楽にできるようになれば、家族によって個人が不幸になることが少しは減ることが見こめる。

 参照文献 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『構築主義を再構築する』赤川学 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫