理想といえるほどにのぞましい形で、皇室の女性は一般の男性と結婚をしたのか

 皇室の女性が、一般の男性との結婚を発表した。結婚したあとは日本の国内ではなくてアメリカで暮らすつもりだという。結婚することによって女性は皇室からはなれて一般人になる。

 皇室の女性が一般の男性と結婚したことについてをどのように見なすことができるだろうか。結婚の相手の一般の男性は、借金のもめごとをかかえているといい、けちがついているところがあるのをくみ入れると、すべての日本の国民が結婚を祝うことができているのだろうか。それらのことについてを、個人の意思と誘引(incentive)と、幸福の快楽説と欲求実現説から見てみたい。

 すべての日本の国民から結婚することを祝われるためには、個人の意思を殺さなければならない。個人の意思を消さないとならない。日本では個人が意思をもつことがよしとされていないところがあるから、個人が意思をもてば、まわりとうまく合わないことがおきてくる。

 作家の村上春樹氏は、他己(タコ)か異化(イカ)かを言っていた。他己は自分を殺してまわりに合わせる。異化はまわりに合わせるよりも自分の意思をより重んじる。日本ではあつかいやすい他己がよしとされやすい。学校の教育ではおもに他己を育てている。異化だとあつかいづらいからまわりからうとまれやすくて生きて行きづらい。他己であれば異化であることはできないし、異化であれば他己であることはできない。大まかにはどちらかを選ぶことになる。

 こうしたいとかああしたいといった意思を個人が持つのであれば、多かれ少なかれまわりとぶつかり合うことを避けづらい。個人が意思を持つことで、まわりとぶつかり合うところがおきれば、すべての日本の国民から祝われるようではなくなる。個人の意思を尊重するのであれば、すべての日本の国民から祝われることはいらない。

 一般の男性と結婚をして、皇室からはなれて自由な一般人として生きて行くことができるようになる。制度としてそれが認められているのであれば、それを選びとる誘引がはたらく。

 結婚をしたいとか、自由な身になりたいとか、一般人として生きて行きたいとのぞんでいて、それができる道があるのなら、その道に進んで行こうとする誘引がはたらき、よいとか悪いとかといったこととはまたちがった見なし方がなりたつ。皇室の女性であればこうするべきだとかああするべきだとのあるべきあり方とは別に、誘引にしたがった行動ができるのである。

 あるべきのぞましい皇室のあり方とはちがい、個人の幸福の点から見てみると、その個人の効用(満足)がどれくらい高まるのかや、個人がもつ欲求が実現できるのかが重みをもつ。

 たとえあるべきのぞましい皇室のあり方があり、それにしたがっているのだとしても、皇室に属している個人が幸福になるとはかぎらない。皇室としてのふさわしいあり方にしたがっていたとしても、皇室に属している個人が不幸であることは十分にあることだ。個人が不幸なのであれば、個人主義からするとのぞましくないあり方だといえる。

 より個人の効用が高まり、個人がもつ欲求が実現できることになるのであれば、許されている限りにおいて最大限にそれが見こめる行動をしたほうが、個人にとっては幸福になりやすい。皇室のあり方としてどうかとか、日本の国民のすべてから祝われるかどうかは、そう大した意味をもつことではない。さしたる問題ではない。

 皇室のあり方としてどうかとか、みんなから祝われるかどうかとかのことを気にしていたら、個人の意思を殺さなければならなくなるから、個人が幸福になることからは遠ざかりやすい。日本では、個人が意思をもつことが否定されがちなのがあり、それが天皇制に象徴して示されている。天皇制は個人を否定する性格が強い。

 参照文献 『幸福とは何か 思考実験で学ぶ倫理学入門』森村進 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男