安心社会か、信頼社会かが、こんどの選挙では問われる―日本の政治におけるうそのまん延化

 共産党が入るのだから、立憲共産党だ。野党である立憲民主党日本共産党がおたがいに選挙で協力し合っていることを、与党である自由民主党の政治家はそう言っていた。

 共産党が入った政権を選ぶのか、それともそうではない自由民主主義の政権を選ぶのか。自民党の政治家はこんどの選挙でそれが問われるのだとしているが、それはほんとうのことなのだろうか。ほかにもこんどの選挙において問われることはあるのだろうか。

 どういったことがこんどの選挙で問われるのかは、それぞれの人によってさまざまにあげられるものだろう。いろいろにあげることができる中で、自民党の政治家が言っているように、共産党が入っている政権かそれとも自由民主主義の政権かではなくて、安心社会か信頼社会かが問われるのだと見なしたい。

 自民党は安心社会を代表する政党である。そのことによって自民党は国民の多数から長いあいだにわたって選ばれつづけてきているが、そのことでゆがみやひずみがたまってきている。ゆがみやひずみがたまっているのは、日本の政治ではそうとうに嘘がつきつづけられてきているのがあげられる。嘘だらけになっていて、言葉がまともに機能しているとは言えない。きびしく見ればそう見なせる。

 ゆがみやひずみがたまっていることで、これまでに長いあいだ選ばれつづけてきている自民党にたいして機会費用(opportunity cost)が高まっている。自民党を選んでおけば無難だといったことで自民党が選ばれつづけてきていて、探索の費用は安くあげることができるが、機会費用が高まることになる。

 政権をとれるのはどこかの一つの政党だけだ。いくつもの政党が政権をとれるのではない。ある一つの政党が政権をとれば、それによってほかの政党が政権をとることができなくなるから、もしもほかの政党が政権をとったさいに得られる利益が得られなくなる。もしもほかの政党が政権をとっていたら得られるだろう利益を捨ててしまっている。それが機会費用が高まることである。

 自民党が政権をとりつづけることで、探索の費用は安くあげられるにしても、そのかわりにどんどん機会費用が高まっているのがいまの日本のありようだと見られる。機会費用が高まりつづけていることを隠しづらくなっている。もはやごまかしづらい。それは自民党そのものが劣化しつづけていっているのも関わっている。

 探索の費用は安くあげることができるが、機会費用が高くつくことに、国民の少なからずが気がつけば、選挙で政権の交代がおきるだろう。そこまで行くかはわからないけど、無難であるからとして自民党を選ぶよりも、ほかの選択肢を選んだほうが、よりよいといえるのがおきていて、探索の費用をそれなりにかけて、自民党ではないほかのいろいろな選択肢を(も)くみ入れることにそれなりの合理性がおきている。

 自民党に任せていれば無難で安心だとするのが安心社会のあり方だ。安心社会のあり方が通用しづらくなっていて、信頼社会への移行が迫られている。選挙で政権の交代がおきて、野党が政権をとるようになったら、その移行ができるのかといえば、必ずしもそれができるとは言い切れそうにない。

 安心社会から信頼社会に移行するためには、国が情報の統制をするのをやめて、情報が民主化されないとならない。情報が民主化されていなくて、情報の統制が行なわれていることによって、政治で嘘がたくさんつかれてしまっている。選挙で政権の交代がおきて、野党が政権をとったとしても、政治で嘘がたくさんつかれることが改まることは必ずしも見こみづらい。多かれ少なかれ嘘をつかざるをえなくなっているのがある。

 選挙で政権の交代がおきて、野党が政権をとれば、嘘がたくさんつかれすぎてきたひどいありさまが少しは改まることが見こめる。少しはましになるだろうが、根本から抜本的に、安心社会から信頼社会に移行できるかは定かではない。安心社会のあり方にとどまりつづけようとする力が根強くはたらき、嘘をつくことをやめづらい。

 よほどの努力をして、日本が置かれているきびしい現実から目をそらさずに、きちんときびしい現実に目を向けるのでなければ、安心社会のあり方にとどまりつづけることになり、信頼社会への移行はできそうにない。うまく信頼社会に移行することができなければ、嘘がたくさんつかれつづけることに歯止めがかからず、きびしい現実から目をそらしつづけることになるだろう。

 参照文献 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『情報政治学講義』高瀬淳一