化粧品会社の会長の個人の好みを無理やりに社員に押しつけてもよいのだろうか―倫理観や政治的公正(political correctness)の欠如

 日本の社会の中にいる朝鮮の人たちへの差別を言っていたのが化粧品会社の会長だ。韓国や中国の人たちへの差別の発言をくり返している。その化粧品会社は会社の中で社員にたいして色々とおかしいことをさせていたのだと週刊誌の記事では報じられている。会社の内部の人からの告発によってわかったことである。

 化粧品会社では会社の上に立つ会長の個人的な好みを社員に押しつけていた。会長の個人的な好みに合うような行動を社員にとらせていた。

 化粧品会社の会長は差別の発言を言っていたが、それは許されてよいものなのだろうか。会社の上に立つ会長だからといって、個人的な好みを社員に押しつけてもよいのだろうか。そこに見られるのはたんに会長が差別の発言をすることがいけないことなのにとどまらず、広く日本の社会における組織のあり方のまずさだ。

 日本の会社は帰属(membership)があっても職務(job)はないと言われる。帰属だけがあって職務がないことが日本の会社では多いために、社員の自主性が認められづらい。社員は会社に従属させられやすい。会社は社員にいろいろな要求をつきつけることになり、それを社員はのまされる。会社からの要求を社員は断りづらい。

 個人を生かすような組織であることが個人主義においてはのぞましい。個人を押し殺してしまうような組織は個人主義においてはまずい。日本の会社は個人を押し殺してしまうようなことが少なくなく、それは会社だけではなくて日本の国そのものにも見られるものだろう。日本の国そのものが組織として個人を生かすような個人主義ができていない。集団主義の色合いが強い。個人よりも集団だとなっている。

 集団主義が強い中では、個人が自分の判断でよいか悪いかを決めづらい。組織がよしとすることに個人が従わせられる。組織がまちがっているさいに、個人はそれに声をあげづらい。声をあげるとまわりから浮いてしまい、そこだけ目だってしまう。声をあげる者は集団から排除されることになる。村八分のようにのけ者にされる。つらいしうちを受ける。

 組織がまちがった方向に向かってつっ走って行くのは、組織がもっている虚偽意識がどんどん強まって行くことによる。組織の虚偽意識が強まることがうながされるのは、組織にとって都合が悪い者を排除していることによる。組織にとって都合が悪い者を組織が排除すれば組織にとってはやりやすくなるが、そのかわりに組織がもつ虚偽意識がどんどん強まってしまう。

 日本の戦前や戦時中では、日本の国がもつ虚偽意識がどんどん強まっていって、国がまちがった方向に向かってつっ走っていった。国をよしとすることだけが認められていて、こうあるべきだとする当為(sollen)はあったが、それぞれの人によってさまざまにちがいがある実在(sein)は許されなかった。こうあるべきだとする当為だけによるのは虚偽意識だが、国がもつ虚偽意識がどんどん強まっていったために、そこに歯止めがかからなくなったのである。

 個人を押し殺して、組織がよしとすることを無理やりに個人に押しつけるようだと、組織に不祥事がおきやすい。集団主義の色合いが強くなりすぎることで、個人が色々に自由な見なし方をもつことが許されなくなる。組織の長が超越のものとされて、その超越の他者(hetero)に下の者が動かされる。

 集団の中の長が超越の他者になって、それによって下の者が動かされていたのが、日本の戦前や戦時中の天皇制だ。天皇は生きている神だとされて、日本の国の中の超越の他者だとされた。個人は自由であることが許されなかった。個人は天皇のしもべにすぎず、天皇のための道具や手段にすぎない。天皇や国体があっての個人だとされていて、個人が個人のままではよしとはされない。個人が自由に色々な見なし方をすることが認められなくて、ただ日本の国がよしとするたった一つの見かたを上から一方的に押しつけられたのである。

 日本の国は国民の心の中にたやすく入りこもうとする。国は国民の心の中に入りこむすきを虎視眈々とうかがいつづけている。それはあってはならないことだが(あってはならないことが行なわれてしまっているが)、それと同じように会社においても社員の心の中にまでたやすく入りこもうとしてはいけないものだろう。日本の国がもつ駄目でまちがったあり方の真似をしないようにするべきである。悪いことを真似するのではよいことではない。

 集団の中において上に立つ長が超越の他者になって、下の者を従わせるのは個人主義にはそぐわない。集団主義の他律(heteronomy)のあり方ではなくて個人主義の自律(autonomy)のあり方になるようにしたい。他律だと集団の中でただ他に従わせられるだけになり、集団そのものがまちがっているさいに修正がききづらい。歯止めがかかりづらい。修正や歯止めがかけやすいのが個人主義による自律のあり方だ。

 日本の国の中では、強者がはばをきかせることによって弱者をしいたげるのではないようにしたい。日本の国の中では少数者や弱者は可傷性(vulnerability)やぜい弱性をもっているために悪玉(scapegoat)にされやすい。少数者や弱者が悪玉化されやすいのがあるから、それを防ぐようにすることがいる。

 少数者や弱者が悪玉化されることをうながすようなことを会社が組織としてやるのは、その会社の集団としての倫理性(ethics)にまずさがあることをしめす。どういうことが倫理にかなうのかがあり、できるだけ倫理的(ethical)な行動をしたいものである。そうして行くためには、もしも自分が少数者や弱者であったとしたらといったように、立ち場を置き換えたり入れ替えたりしてそれが普遍化できることなのかどうかを一つひとつ確認して行く。普遍化の確認だ。会社が集団として社会の中の少数者や弱者に差別をなすのは普遍化できるものではないから非倫理的なことでありやるべきではないことである。会社の不祥事に当たることだろう。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫爆笑問題のニッポンの教養三〇 我働くゆえに幸あり? 教育社会学太田光(ひかり) 田中裕二(ゆうじ) 本田由紀