ただの紙きれであるお金に価値があるのはなぜなのか―世界三の理論によって見てみる

 国民にお金を配れば、日本の国の経済はよくなるのだろうか。このさい、お金についてを哲学者のカール・ポパー氏による世界三の理論によって見てみたい。

 世界三の理論では、世界一と二と三があるとされる。世界一は物理の物質による物である。世界二は心による。世界三は観念であり、言葉や制度などだ。

 人それぞれによっていろいろな意見が言われるが、これを世界三の理論で見てみると、世界三である観念によるものだ。世界三による単語をいくつも組み合わせて文章ができ上がり、それが一つの意見になる。ツイッターであれば一つのツイートができ上がる。世界三の産物だ。

 心は世界二であり、それを言葉であらわすのは世界三だ。心そのものはとりとめがないところがありふわふわとしているのがあるが、それを世界三の言葉であらわすとりんかくを持つことになる。悲しいときには、悲しいから悲しいと言うのとともに、悲しいと言うから悲しくなるのもある。世界二である心と世界三である言葉とはおたがいに交通し合う。世界三である言葉から世界二である心への交通もある。

 お金とは何かといえば、それを世界三の理論で見てみると、世界一としてはただの紙きれだ。世界一としてはただの紙きれだが、それをお金だと見なすことが世界二や世界三によって行なわれる。

 かつてはお金が貴金属の金や銀であったり、それらにうら打ちされていたりした。お金は世界一である金や銀によっていたのがあり、ただの紙きれなのではなかった。金や銀と交換ができるようになっていたので、完全にお金の価値がなくなることはなかった。

 いまはお金が貴金属の金や銀にうら打ちされていないから、世界一として見るとたんなる紙きれでしかない。世界一として見たらたんなる紙きれでしかないものが、価値があるとされるお金に化けている。化けることができているのは、世界二や世界三において人々がお金に価値があると信じていることによる。

 世界二や世界三において人々がお金に価値があると信じることによって、価値があるものとしてのお金が生成されることになる。これは無から有が生まれていることであり、世界一として見たら紙きれであり無であるものから、価値があるとされる有であるお金が生成されているのだ。無から有がねつ造されている。必要性があることからのものだ。

 完全に無なのではなくて、完全に有なのでもないものがお金だと言える。無と有のあいだにあるものだろう。有であるうちは価値あるものとしてのお金に化けていられるが、無になるとただの紙きれと化す。

 国の財政の借金を見てみると、世界一においてはたんなる紙きれまたは数字でしかない。借金の額は、たんに数字が積み上がっているだけのものにすぎず、数字そのものに意味があるとは言えそうにない。それを世界二や世界三で見ると、借金が負価値や反価値を持つことになる。世界二や世界三をとり外して、世界一だけで見てしまえば、いくら国が借金をかかえていても何もまずいことはないと言える。

 国の借金をどのようなものとして意味づけるのかは、世界三の単語からなる文章によって意見を述べることに当たる。世界三である言葉によって、国の借金についていろいろな意見を述べることがなりたつ。いろいろな意見を述べることができるのはあるものの、お金についてを世界一として見てみれば、ただの紙きれであることは否定しがたい。無から有が生まれている(ねつ造されている)ものなのがお金だから、無であるただの紙きれと化すことがないではない。

 参照文献 『神と国家と人間と』長尾龍一 『人生のほんとう』池田晶子(あきこ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)