運動で言われていたように、天皇に不敬をはたらくことは悪いことなのか

 愛知県の県知事を辞めさせる。辞めさせる運動のなかで、不正が行なわれた。運動の関係者が逮捕されることになった。

 運動では、昭和天皇を否定することに税金を使ったとして、県知事を辞めさせようとしていた。天皇にたいする不敬だとしていた。

 運動では不正が行なわれていた。集めた署名の中に多くのねつ造が含まれていたことがわかっている。この運動についてをどのように見なすことができるだろうか。

 天皇に不敬をなすことが悪いと運動ではしていたのとは逆に、むしろ天皇に敬意を持ちすぎていることがよくない。天皇にたいして敬意を持ちすぎているのが悪くはたらいている。そう見なしてみたい。

 いまもって天皇に敬意を持ちすぎてしまうことがおきているのは、戦前や戦時中の天皇制のあり方がいまにおいても生き残りつづけてしまっているのがあるからだ。戦前や戦時中のまちがった天皇制のあり方がいまにおいても残存しつづけてしまっている。

 天皇にたいして敬意を払わないのが悪いのではなくて、むしろその逆に天皇に敬意を払いすぎているのが悪い。日本の社会の中にまずさがあるのだとすれば、天皇に敬意を払いすぎてしまっているところにまずさがある。

 日本では集団思考(groupthink)がはたらきやすいために、みんなが天皇に敬意を払おうとしてしまう。天皇に敬意を払わないのははみ出し者のようになってしまう。多くの人たちがやっていることだからといってそのことが正しいとは限らない。はみ出し者だからといってまちがったことをやっているとは限らないものだろう。はみ出し者を排除する装置だったのが戦前や戦時中の天皇制だ。

 天皇に敬意を払うべきだとはいっても、敬意を払いすぎてしまうことの悪さを見なければならない。いまの天皇制では天皇から権力がはく奪されているから、天皇が政治の権力をもつことが許されていない。政治の権力を持たない天皇は、ぬけがらのようなものである。形だけあることが許されているようなものにすぎないのがいまの天皇制だ。あって無きがものといってよいものだろう。

 ぬけがらのようになっていて、形だけあることが許されているのにすぎないのがいまの天皇制だから、それに敬意を払えといったところで、たとえ敬意を払えないのだとしてもおかしいことだとは言えそうにない。天皇制は擬制(fiction)のものであり、虚構のものだから、ほんとうに実体としてあるものだとは言えないものである。

 擬制によって生きている神だとされていたのが戦前や戦時中の天皇であり、そのことによって日本の国の内や外に大きな害や損を生み出した。戦争に負けたことによって一時的に擬制であることの化けの皮がはがれて、神ではないことが明らかになった。ただの人間にすぎないことになった。どこにでもいるそこらへんにいる人間と変わらないのが天皇だ。敬意を払うべき天皇とは、その多くのところがつくられたものにすぎず、虚構によっているものだろう。上げ底にされているものだから、等身大とは言えそうにない。

 じっさいに行なわれたものである愛知県の県知事を辞めさせる運動にたいする反運動があるとすれば、天皇に敬意を払うなとしてみたい。敬意を払いすぎるべきではないとしたい。敬意を払う人がいてもよいが、払わない人がいてもよいはずであり、天皇制を批判する人がいてもよいはずだ。

 いろいろな人がいてよいのがあり、いろいろなあり方が自由に許されるのでないと、国家が個人の内面に介入しないようにするものである近代の国家の中性国家の原則に反することになるだろう。いろいろなあり方があってよいはずのなかで、敬意を払わなかったり批判をしたりする人が少なすぎることのほうがまずい。敬意を払う人が多すぎるのだ。

 参照文献 『昭和の終焉』岩波新書編集部編 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『徹底検証 教育勅語と日本社会 いま、歴史から考える』岩波書店編集部編 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男