皇室の女性の結婚と、天皇制のまずさ

 天皇家の女性が、一般の男性と結婚する。結婚したあとには二人は日本ではなくてアメリカで暮らすつもりだという。

 皇族の女性と一般の男性とが婚約を決めたことについて、どのように見なすことができるだろうか。

 戦後のいまにおいての天皇制は、ただ形だけが残っているものであり、ぬけがらのようなものになっている。戦前においては天皇制は絶対とされていて、天皇は生きている神だとされた。天皇を絶対化することによって日本の国は大失敗した。国の内と外に大きな損や害をもたらしたのである。

 じっさいの意味あいはほとんどなくて、ただ形だけが残っているのがいまの天皇制である。天皇制が形だけになっていることで、戦前に国をあげて天皇を絶対化したようなまちがいをいちおうは避けることができている。

 天皇家に属していれば、皇族として見なされるが、それは擬制(fiction)であるのにすぎない。天皇家の中での役割をにない、それを演じているのにすぎないものだろう。役割をとり外して見てみれば、実存としての個人があることになる。

 本質主義で見てみれば、天皇家に属していることが本質となる。本質が絶対化されることになり、それが前景化される。本質主義では見ないようにして、実存主義によって見られるとすると、実存は本質に先立つ。本質だとされる天皇制や皇族は相対化されることになり、それよりも実存のほうが先立つことになる。実存としての生身の個人がより前景化されることになる。

 ゲシュタルト心理学の図がら(figure)と地づら(ground)で見てみると、戦前においては国をあげて天皇制が絶対化されていたから、天皇制は図がらとして固定化されていた。そのなかで実存としての生身の個人は後景に追いやられてしまっていた。実存が地づらにされて、個人の私が頭から否定された。

 国をあげて天皇制が絶対化されていたのが戦前であり、本質主義がとられていた。天皇制や日本の国が絶対化されていて、それが実存である生身の個人よりもより優先されていたのである。

 本質主義がとられていたのが戦前だが、戦後にはそれが改まったのがある。改まりはしたものの、また本質主義がぶり返す動きが強まっている。本質としてこうであるべきだといったようなかくあるべきの当為(sollen)がとられるようになっている。かくあるの実在(sein)が軽んじられている。

 日本の国はこうであるべきだといった上からの当為がとられることが日本では何かとおきがちだ。本質主義によりがちなところがあり、国家の公が肥大化して行く。それで実存である生身の個人の私が押しつぶされてしまう。

 もはや形だけのものになっているのが戦後における天皇制だが、だからといって必ずしも安全なものだと見なすことはできないのがあり、本質化しようとする動きが根づよい。本質化の動きが根づよいのは、戦前と戦後がしっかりと断絶されていずに、連続してしまっているところがあるからだ。戦前のあり方が温存されたままで戦後の歩みが進んできたのである。戦前と戦後が地つづきになっているところが小さくない。

 天皇制や日本の国といったものを本質化しないようにして、それらを絶対化しないようにして行きたい。国家の公の肥大化に歯止めをかけて行く。たんなるつくりごとにすぎないのが天皇制や日本の国であり、あるといえばあるが、無いといえば無いものだ。

 世界がグローバル化しているなかでは、天皇制や日本の国は液状化していて、それらのあちらこちらにいくつもの穴が空いている。いくつもの穴が空いているのを隠し切れなくなっている。穴をふさいでフタをすることができづらくなっていて、自明性の厚いからにいくつものひび割れが入っている。

 なにに焦点を当てるようにして何を重んじるようにするべきなのかといえば、実存としての生身の個人の私を重んじるようにして、個人の私を大切にして行く。本質主義ではなくて実存主義によるようにして、実存は本質に先立つといったようにして行き、個人の私の自由ができるだけ最大化されるようになればよい。

 参照文献 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『昭和の終焉』岩波新書編集部編 『安部公房全集 二十四』安部公房(こうぼう) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『情報生産者になる』上野千鶴子 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし)