分配なくして成長なしなのか、成長なくして分配なしなのか―不利益の分配をどうするのか

 国の経済をどのようにして行くのか。経済について、分配なくして成長なしを野党である立憲民主党はかかげていた。

 総裁選が行なわれた与党である自由民主党では、新しい党の長は、野党とはちがい、成長なくして分配なしと言っている。それとともに分配もまた大切だと言っている。成長と分配のどちらもが大切だと言う。

 野党である立憲民主党がいうように、分配なくして成長なしだといえるのだろうか。それとも与党である自民党の新しい党の長がいうように、成長なくして分配なしであり、それとともに分配もまた大事だといったことなのだろうか。

 いまの日本の国の財政は、ぼう大な借金をかかえている。ばく大な借金が積み重なっている。それを無視することはできそうにない。

 分配といったさいに、利益の分配がとり上げられることになるが、それは正の分配である。いまの日本の国の財政からすると、正の分配はできづらい。国の財政にゆとりがないからだ。

 戦後からしばらくは日本は経済が大きく成長していたので、正の分配をすることができた。それを主としてにないつづけてきたのが自民党だ。

 戦後からしばらくのときのように、大きな成長をすることが見こみづらいのが日本のいまの経済だろう。利益の分配をやろうにもそれができづらい。利益ではなくて不利益の分配をどうするのかを避けては通れなくなっている。

 いまの日本は負の分配をすることが避けては通れなくなっているので、たとえ正の分配をやろうとしたとしても、じっさいにはそれができずに負の分配をすることになる。けっきょくは負の分配をするはめになる。そこに欠かせないのは、政治家による言葉の力である。

 与党や野党がいうように、成長なくして分配なしとか、分配なくして成長なしといったことではなく、こういったことが言えるのではないだろうか。分配と成長はとりあえず置いておけるとして、政治家による言葉の力なくして政治なし、といったことが言える。

 求められているのは、成長や分配といったことであるよりも、むしろ政治家による言葉の力なのがある。いかに政治家が説明責任(accountability)を果たして行くことができるのかが求められている。

 分配をすればそれでものごとがうまく進み、成長が見こめる。成長すれば分配がうまく行く。こういったものは正の分配による発想だろう。そこでもとになっているのは、正の利益をだれにどのように分配するのかである。正の分配は戦後からしばらくのあいだのような大きな成長がおきているときに当てはまるものだ。いまの日本は大きな成長を見こみづらい。

 いまの日本が置かれている現実は生やさしいものだとは言えそうにない。そうとうにきびしい現実がさし迫っているのが日本のありようだろう。生やさしくなくてきびしさがあるのは、日本の国の財政はそうとうに苦しいのがあるからだ。負の分配をどうするのかを避けて通ることができなくなっている。

 日本の社会の中が息苦しくて生きて行きづらさがおきているとすれば、負の分配をどうするのかがつきつけられているのが大きい。負の分配をどうするのかが国民に重くのしかかっている。そのなかで、いたずらに甘い虚構の幻想や神話(myth)に逃げこむのではなくて、きびしい現実を直視することがいるのだと見なしたい。政治家がそうとうにきちんと言葉を磨いていって、言葉の力をうんと高めて行くのでないと、いまの日本の国が置かれている難局を乗りこえることができるのかはそうとうにうたがわしい。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)