いまの首相に取って代わる人がいないということ―どういう視点で見るかによって変わってくる

 いまの首相に取って代わるようなめぼしい人が見当たらない。だからいまの首相を選ぶしかない。そうせざるをえない。そうした声が言われている。

 いまの首相のほかにはめぼしい人が見当たらないというのは、ふさわしい見なし方なのだろうか。

 一つには、参照点を変えて見てみることができるのがある。いまの首相についてを、かりに最高でプラス一〇〇〇点から最低でマイナス一〇〇〇点までの幅で見ることができるとして、どういう点数をつけるのがよいのかはまちまちだ。

 中には文句なしということでプラス一〇〇〇点をつける人もいるだろう。ちがう人はまったく駄目だということでマイナス一〇〇〇点をつける人もいる。これらはかなり極端ではあるけど、まったく的はずれだとは言い切れそうにない。かりにマイナス一〇〇〇点とするのがふさわしいとしたら、首相の地位には適していないことになるから、ほかの人が首相をになうのがふさわしい。

 首相としてふさわしい人かどうかは、参照点を動かすことができるので、どういう点数をつけるのかや、どこの水準で満足するのかを変えて見ることができる。どういう点数をつけたところで、まったくもってまちがっているとまでは言い切れないのがあるし、その人にとっては正しいともいえる。

 満足化では、どこで満足するのかや、どこから不満足となるのかのちがいがある。そのしきいとなる線がある。しきいの線から上なら満足するが、その下なら不満足の感をいだく。そこには取って代わる人をさがすための探索にかかる費用が関わってくる。

 結婚をすることになぞらえると、世界中に異性は三〇億人強くらいいて、その中から自分にとって一番のぞましい伴侶(ベター・ハーフ)をさがすには、とても大きな探索の費用がかかってしまう。一生をかけても終わらないかもしれない。そこまでは費用はかけられないから、どこで自分が満足できるかが決め手となる。それなりに満足できる人が見つかれば、いつまでも探索の費用をかけつづけることを防げるので合理的だ。

 具体的に首相を誰がになうかとは別に、そもそも首相という地位に重みを置きすぎている。それを軽くしてみることができる。政治を個人化して見すぎてしまっているのを改めてみる。

 首相が単独で、独力で何かをなすというよりは、むしろまわりの支えのほうが大きい。まわりがものごとを動かしている。まわりがもつ力のほうが大きいのであって、首相が単独で何かすごいことをなすとか、何かを大きく動かすことは、あまりできないことなのではないだろうか。そういうふりをすることはできるだろうが。あまり首相という政治家の個人に強く焦点を当ててみてもしかたがないのがあって、それはほかの政治家の一般についても同じことがいえる。一人の人が、そんなに大した効力感(実力)をもっているのかははなはだ疑わしい。

 首相にふさわしいめぼしい人が見当たらないのは、与党の党としての人材が不足している。なので、与党の党としての問題だということがいえるだろう。党としての機能を十分にもっていないのだからまずいことである。

 どういう人が首相としてふさわしいかやふさわしくないかは、どういうあり方をのぞましいものとするかが関わってくる。どういうあり方がのぞましいかやのぞましくないかは、人によってそれぞれにちがう。なので、その人がもつのぞましいあり方またはのぞましくないとするあり方に照らし合わせて、どういう首相がよいとか悪いとかということになるから、客観であるというよりは主観のことがらとなる。

 その人がどういうあり方をよしとするかやよくないとするのかを抜きにして、ただたんに客観のことがらのような形で、どういう人が首相としてふさわしいとか、または代えとなる人がいるかいないかといっても、そんなに大きな意味があるかは定かではない。

 ほかに人がいないからということで、いまの首相を選ぶということは、いまの現状でとくに大きな問題はないということだが、そうではない見なし方もまたなりたつ。その見なし方のちがいについては、人それぞれでちがってくるものだから、どれがもっとも正しいとか、どれかだけが正しいとは言い切れなくて、どれもが正しいことが可能性としてはありえる。

 参照文献 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫