市長選挙と、共産党の是非―選挙で勝つことを目的とした(効果的だと判断した)広告なのだろうが

 大切な京都に共産党の市長はノー。京都市の市長選で、共産党に属する候補者への否定的な広告が新聞に載ったようだ。共産党は独善なのだとしている。

 共産党はよくないということで、これは修辞学でいわれる類または定義からの議論による広告だと見なせる。類というのは、何々は何々だというものだ。共産党はよくないのだという負の含意をこめさせているのだ。

 独善ということでは、共産党というよりは、むしろいまの首相による政権や、与党である自由民主党こそが、それにほかならないのではないのだろうか。

 政治で独善にならないようにするためには、立憲主義をきちんと守るようにすることなどがいることだろう。いまの首相による政権やいまの与党はそれがきちんとできているとは見なしづらい。それで自分たちのことをさし置いてほかの人のことが言えるのだろうか。

 共産党はよくないというのだと、人にうったえる議論や対人論法になってしまうから、それはなるべく避けるようにしたい。どの党であったとしても、そこに属するすべての人がおかしいということはないし、またすべての人がすぐれているということもありえづらい。

 どの党の中にも(よほど狂った党ではない限りは)おかしい人はいるだろうが、中にはすぐれた人もいるのであって、それについては個別にその人の中身を見て行くことがいる。たとえいまの自民党であったとしても、少なく見積もっても、ほんの少しくらいは相対的にまともな人もいることは確かだ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信