桜を見る会と、政権による反証のがれ―野党の追及による反証と、政権の反証のがれ

 桜を見る会のことでは、追う者と追われる者とによると見られる。追う者は野党で、追われる者はいまの政権やいまの与党だ。

 追う者である野党は、もともとのきっかけは、桜を見る会のおかしさについて、そこに残されたこん跡をたどって行った。共産党の議員は、残された行動のこん跡からおかしいところを見つけて行って、とり上げた。

 いまの政権は、あくまでも桜を見る会について、自分たちにはとくに問題はなかったという立ち場をとっている。この立ち場は無理やりに押し通すことができづらく、さまざまにおかしい点があることがさし示されている。政権の立ち場への反証(否定)が試みられていて、それなりの説得性を持っている。

 追う者である野党は反証をどんどん試みて行っているが、政権や与党はそこから反証のがれしつづけている。政権や与党による反証のがれには、かなり無理なところがあるように見うけられる。のがれられていないし、のがれるべきではないし、のがれ切れていないのにも関わらず、のがれようとしつづけている。

 与党や政権は、反証のがれしつづけているのにも関わらず、のがれられていないし、のがれ切れていない。もはや政権は自分たちの立ち場が少なからず反証されてしまっていることを認めざるをえないが、それをかたくなにこばみつづけている。

 追われる者である政権が、自分たちの立ち場は反証されていなくて、実証(肯定)されているのだというのであれば、それに関しては現実に残されたさまざまな状況証拠と非整合になるところが多い。政権が自分たちの立ち場を実証するためには、もっと批判の声に向き合わなければならないし、もっと説明の責任を果たさなければならない。政権は、他からの批判にたいする有効な対抗となる言論つまり有効な弁明ができているとは言えそうにない。

 追う者である野党は、桜を見る会で政権がおかしなことをやったということを実証する立ち場にあるが、この実証がまちがっているのであれば、政権はそれについて反証を試みなければならない。その反証の試みはほとんどできているとは言えそうにない。反証の試みができていないし、それに失敗しているのだと言わざるをえない。

 桜を見る会のことそのものが、とくに大したことがないことだというのであれば、たしかにそれもまた一理ある見かたではあるだろう。だから、実証でも反証でもどちらでもよいではないか、という見かたもまたできるかもしれない。その見かたをとるのではなくて、小さいことではあるかもしれないが、桜を見る会について、小さいさまざまな点におかしいところがあるのを見て行くことにするとすれば、政権は野党の立ち場を反証できていないし、自分たちの立ち場を実証できていず、無理やりに反証のがれをしつづけていると言ってよいだろう。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『追及力 権力の暴走を食い止める』森ゆうこ 望月衣塑子(いそこ) 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)