政権や与党の抱えるさまざまな問題―ある問題と、あらしめる問題と、あるかもしれない問題

 桜を見る会について、政権のやっていたことに野党は追及を強めるかまえだ。

 政権のやっていることにたいして、おかしいことがないかと野党は追及をする。その追及のしかたについて、すべてが生産的なことだとは言えず、中には非生産的なものもあるだろう。

 今回の桜を見る会については、野党の追及が功を奏したということが言えるのではないだろうか。というのも、野党の議員がこの会におかしいことがあるとして問題をとり上げたことによって、はじめておかしいことがあることが明るみに出るようになったからだ。もし野党の議員がこのことをとり上げなかったら、問題が明らかにならなかったおそれが高い。

 問題を何とかして行くためには、まずはそれを見つけないとはじまらない。現にある問題を見つけて、(まだ見つけられていない)問題をあらしめるようにして、あるかもしれない問題を探って行くことがいるのだ。

 現にある問題を放ったらかしにして、問題をあらしめないようにして、あるかもしれない問題を無いだろう(無いにちがいない)と見なす。それがいまの時の政権のやっていることではないだろうか。

 与党のやっていることを野党が追及するさいに、それが非生産的になることがあるが、野党の追及の非生産性があまりにも強調されすぎてきたために、与党のやっていることの非生産性が見逃されつづけてきた。野党が叩かれることが多くて、与党はそこまで叩かれてこなかった。それでいまにいたっているのではないだろうか。野党というよりも、与党のおかしさの方にこそ問題があって、そちらのほうがより心配だ。

 哲学者のヘーゲルは主人と奴隷の弁証法というのを言っているそうなのだが、主人というのは強くて、奴隷というのは弱い。それを与党と野党になぞらえられるとすると、いっけんすると主人は強くて奴隷は弱いようでいても、そのあり方が逆転することがある。強いというのは裏返せば弱いことでもある。強いというのは何か守らなければならないものがあることでもあるから、それを守らなければならなくなって守勢に回ると、それまでとは一転して弱くなることがある。

 奴隷というのは弱いが、あり方が変わることがあると強くなることがある。奴隷というのは弱い立ち場に置かれているから、そういう立ち場に置かれることによって鍛えられる。高められやすい。それに、強いものと比べれば守るものがないから、強いもののように守るべきものを守るために守勢に回るのではなくて、攻勢に打って出ることができれば強い。

 ことわざで言う窮鼠(きゅうそ)猫を噛むというのがあるが、猫は主人でねずみは奴隷だとすると、猫がねずみをおそうところが、追い詰められたねずみが猫に反撃を与えるという流れになる。これは主人と奴隷の弁証法で、やる立ち場である主人とやられる立ち場である奴隷が転換したことを示す。

 強いものが強いままに、主人が主人のままに置いておかれることによって、かえって駄目になって行く。弱い立ち場である奴隷のように鍛えられることがないからだ。主人であっても奴隷であっても、哲学者の  F・ニーチェの言うように、すべての生き物はみな力(権力)への意思をもつ。自分の力を高めようとする。その中で、より強くなる余白が小さいのが主人で、それが大きいのが奴隷だということができる。このさいの強いと弱いというのは、相対的なものであって、絶対的なものではなく、静止しているものではなくて、消長つまり変化するものとしてあるものだろう。

 参照文献 『問題解決力を鍛える』稲崎宏治 『現代思想を読む事典』今村仁司