立憲民主党などの野党は、なんにでも反対しているのか―他者性の否定と、他者への軽べつ

 なんでも反対するのから脱することが、新しい代表にはいる。日本維新の会の政治家はそう言っていた。野党の立憲民主党で、新しい代表を選ぶ代表選が行なわれることについてのものだ。

 維新の会の政治家が言っているように、なんでも反対するのから脱することが、新しい立憲民主党の代表には求められるのだろうか。維新の会の政治家が言っているのとはちがう見かたをしてみたい。

 あたかも立憲民主党などの野党が、なんにでも反対や批判をしているかのように言うのは誇張である。修辞学でいわれるわら人形攻撃(straw man)をしているものだ。反対や批判をしなければならないものについてはそれをするのがよいことなのだから、それらまでが否定されるのはおかしいことだ。

 与党である自由民主党のやっていることが、完全に正しいものであるとすることはできないことである。自民党がやっていることを完全に正しいものとして基礎づけたりしたて上げたりはできないから、野党などによる他からの批判に開かれていることがいる。

 与党であっても野党であっても、他からの批判に開かれていることがいるから、与党である自民党は他からの批判を受けることがいるし、野党である維新の会も批判を受けることがいる。維新の会は、ほかの野党である立憲民主党などをしつように批判しているが、そうであるところのものである維新の会もまた批判されるべきだ。

 維新の会が批判されるべき点としてはいろいろなものがあるが、野党どうしのあいだに分断を生んでしまっているのがあげられる。維新の会にとってみれば、立憲民主党などは他者にあたるのだから、他者にたいして最低限の愛と尊敬をもつことが倫理(ethics)としてはいる。維新の会は非倫理のことをしていて、ほかの野党を軽べつしているところが強い。

 他者としての立憲民主党などの野党のことを軽べつすれば、与党である自民党の思うつぼだ。維新の会は、自民党の思わくをそんたくしてうごいている。官僚が自民党のことをそんたくする(させられる)のと同じだ。自発の服従の主体であり、権力の奴隷だ。茶坊主である。

 日本の国は自民党とそのとり巻きだけでなりたっているのではないのだから、他者に当たるものを軽べつするようではないようにしたい。他者に当たるものにたいして最低限の愛と尊敬をもつことが倫理ではいる。日本の政治ではそれが欠けてしまっていて、他者にあたるものへの軽べつが強くおきている。寛容性(tolerance)がなくなっている。いかに他者性を否定せずにそれを尊重することができるのかが、日本の政治を少しでもよくして行くためにはいることだ。

 参照文献 『つながり、変える 私たちの立憲政治』中野晃一 聞き手 田中章史 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳