健全な芸術、という形容矛盾―呪われた部分や退廃による不健全さや反社会性

 健全な芸術というのは形容矛盾や矛盾概念なのではないだろうか。そう言ってしまうと言いすぎになるかもしれないけど、あらためて見れば、健全な芸術や文化というのははたして(それだけを持ってして)面白いものなのだろうか。

 公序良俗に反しないというお墨つきがついたとしても、それは健全さということを意味するのはあるだろうが、空気を読んでしまっているというところがある。

 健全さは害にはならず、不健全なものは害になる。害になるというのは毒になるということであって、毒というのは薬に転化することがある。すべてのものが薬に転化するというのではないだろうけど。

 健全さというのは空気を読むことであるとして、それを読むのは社会的にはよいことではあるが、それを読まないことによって、読むのではない一面があらわれることになる。空気を読んでいるとその一面はわからないが、読まないことでその一面がわかるようになる。その一面に価値があるということが中にはある。価値というのは客観ではなくて主観のものであるのは確かだが。

 文化や文明というのはむき出しの野蛮さや動物性の否定だ。そのような営みである文化や芸術によって、かえって否定されたものに回帰したり、こうせよということを破ったりすることが行なわれることがある。たんに野蛮さや動物性を否定したり、こうせよということを守ったりするだけでは終わらず、そこに立ち戻ることになる。

 うまく否定したつもりだったり、こうせよということをやっているつもりだったりするのが、じっさいにはそうできていなかったり、もくろみとはちがうことになっていたりするのはまれではない。抑圧とその反動といったことがおきて、ねらいとはずれが生じる。前に向かっていたつもりが、うしろにあと戻りしていた、といったことになる。そこに呪われた部分や退廃が起きるということも言えるだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考のレッスン』丸谷才一