政治家の演説と、国民からのやじ―紛争における手段としてのやじの行為と、それにたいする反応

 政治家の演説にたいして、国民がやじを飛ばす。このやじを飛ばす権利は国民にはないのだと、自由民主党の議員は言っている。政治家が演説をしているときに、国民は大きな声を出す権利はないという。はたして、政治家が演説などをしているときに国民はやじを飛ばしてはいけないのだろうか。

 政治家が演説しているときに主張をともなったやじを飛ばすのは、政治の言っていることとはちがう意見をその国民は持っていて、政治家にたいしてものを申すためだととらえられる。そこには紛争がおきているのだという見なし方がなりたつ。

 政治家が演説をしているときに、国民がやじを飛ばすのは、一つの行為だ。その行為そのものは、必ずしもよいとか悪いとかとは言えないものなのではないだろうか。やじを飛ばすという行為にたいして、負の反応をすれば、それはよくないことになるだろうし、正の反応をすれば、やじを飛ばしたのはよくやった(よいことだった)、ということになる。

 政治家の演説の邪魔にはなっているものの、政治家が演説で言っていることよりも、国民が飛ばすやじの内容のほうが、より価値があることはないではない。場合分けをしてみれば、政治家が演説をするからといってそこに何か中身があるとは限らないし、中身がすかすかな空疎な演説というのはある。政治家はえてしてカタリ(騙り)を言う。国民がやじを飛ばすとして、そのやじが的を得たものであることがあるだろうし、的を外したものであることもまたあるだろう。

 そもそも政治家とは何かというと、あくまでも国民の代理人や代表であって、もっとも大切なのは国民であるし、国民の意思であるということが言えるから、国民よりも政治家のほうがいついかなるさいにもより優先されるべきだということには必ずしもならない。

 演説をしていた政治家とやじを飛ばした国民とのあいだに紛争がおきているのだととらえれば、やじを飛ばした国民(主体)がとった、やじを飛ばすという行為は手段だ。その手段は必ずしものぞましくはなかったかもしれないが、問題の所在はそこにあるのではなくて、争点となっていることや原因(要因)があるはずである。その争点や原因を解消するように努めることが政治家にはいる。それをやろうとしないで、たんに国民がやじを飛ばすのは駄目だとか、大声を出す権利はないとかというのでは、肝心なところに目を向けていないのだと言わざるをえない。

 やじについてを範ちゅうと価値に分けて見られるとすると、すべてがすべて駄目なものというのではなくて、中には的を得たものもあるのではないだろうか。やじという集合があるとして、それに分類されるものがおしなべて駄目なものであって、ぜんぶがぜんぶ等しく否定の価値をもっているとまでは言い切れそうにない。

 参照文献 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい)