日本学術会議の問題を、一つではなくて二つの問題として見てみたい―会の問題の有無と政権の問題の有無

 日本学術会議の人の選びかたについてを、一つの問題だと見なす。これについてを一つではなくて二つに切り分けられるとすると、二つの問題がある。

 一つではなくて二つの問題があるといえるとすると、一つには日本学術会議のあり方に問題があるかどうかと、もう一つは政権が日本学術会議になしたこと(介入)に問題があるかどうかだ。

 この二つの問題についてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを場合分けすることができるとすると、四つの見かたがなりたつ。会に問題があり政権の介入にも問題がある。会に問題があり、政権の介入には問題がない。会にも政権の介入にも問題がない。会には問題がないが政権の介入には問題がある。

 これらの組み合わせのうちで政権は会には問題があり(あったから)政権の介入には問題がないのだとしている。政権はこの見なし方をとっているが、じっさいにはこれとは逆で、会には問題はなかったが政権の介入には問題があるとするのが正しいのではないだろうか。政権の見なし方が正しいのではなくてその逆が正しいのである。

 政権のとっている見なし方とは逆のほうが正しいとできるのは、政権が自分たちがなすべき立証や挙証の責任を果たしていないからである。政権が会に介入したことを正当化する理由として持ち出しているものは、飛躍があるものであり、大きなみぞや隔たりが空いているのが目だつ。みぞや隔たりが埋まっていないために正当化ができていない。

 もしも政権が会に介入したことを正当化できるのだとすれば、政権が自分たちがなすべき立証や挙証の責任を果たしていなければならず、これはようは言説が確かでないとならないことをあらわす。言説の質と量が十分にあるのでないとならない。会に問題があったのだと言えるためには、政権が言う言説がそうとうに確かなものであることがいるが、そこがずさんであるために、政権は自分たちを正当化することに失敗している。

 構築主義においては、なにかに問題があると言えるためには、その問題が客観としてあるよりもむしろ言説の確かさのいかんにかかってくる。政権はこの言説の確かさのところがはなはだしく弱い。とにかく数の力で強引に無理やりにでも押し通そうとするのが政権のやり方だ。それは言説をていねいに語って行くやり方とは異なっている。開かれたあり方ではなくて閉じたあり方だ。

 できるだけていねいに言説を語っていって、議論をし合うことに力を注いで行く。そうすることが構築主義において問題をとり上げて片づけて行くためにいることだろう。構築主義においては問題が客観としてあるよりも、問題があるのだ、または問題はないのだ、といった言説の活動に目を向けて行く。そうしたものだとされているのがあり、何についてをどのように言うのかに目を向けて行ける。

 問題が客観にあるとするのではなくて、何についてをどのように言うのかに目を向けられるとすると、政権は言説のところがはなはだしくぜい弱であり、ろくにものごとを語れていない。ただとにかく力で強引に押しまくるといったようになってしまっている。

 政権が言っていることがめちゃくちゃなために、政権が問題をとり上げるのではなくて、それよりもむしろ政権が自分たちで問題を引きおこしてしまっている。その問題とは、構築主義において問題は客観としてあるとは言いづらいのだから、いろいろな言説が下からの帰納によって自由に活発に行なわれるのがいるところが、政治の権力が上から演繹としてこれだけが正しいのだと力によって強引に押し通そうとすることによっている。問題をとり上げて片づけて行くためにいるまっとうな議論が行なわれることがなく、議論が死んでしまっている。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信