集団の中のかたよりと、政治の権力のカタリ―集団のかたよりよりもまず先に政治の権力のカタリをより気をつけたほうがよい

 集団のあり方がかたよっている。与党である自由民主党菅義偉首相は日本学術会議のあり方についてそう言っている。会のあり方がかたよっているからよくないのだという。

 集団のあり方のかたよりと、政治家(政治の権力)のカタリとを比べられるとすると、どちらの方により気をつけるべきだろうか。それは政治の権力のカタリの方だと言えるのではないだろうか。

 このさいのカタリとは否定の意味あいのものであり、政治家がうわべのその場しのぎのとりつくろいや嘘を平気で言うことである。大衆に迎合することを言う。耳に快く響くことを言う。カタリがいっさい駄目だとまでは言えないが、原則としてそれはよくないことだし、度を超えてしまって例外だらけ(カタリだらけ)になってしまってはまずい。

 政治の権力のカタリの方により気をつけるべきなのは、かりに集団のかたよりがよくないのだとすると、政権は自分たちがいちじるしくかたよっているのだから自分たちが解体されるべきだし、政権がいろいろな集団を組織化することができなくなる。

 政権は自分たちをふくめていろいろな集団を組織化しているが、そこにかたよりがおきているのはまぬがれない。政権が組織化する集団の中には、政権にとって都合のよい人が選ばれやすい。政権に甘いことを言う人は中心化されて、きびしいことを言う人は周縁化される。

 政治の政党は英語では party と言うそうであり(political party)、これは部分(part)であることをあらわす。日本の社会の中をまんべんなくくまなくかたよりなく反映している集団とは言えそうにない。あくまでも政党は部分を代表しているのにとどまり、日本の社会の全体を正確に反映しているものだとは言えないものだろう。あたかも政党が日本の社会の全体を正確に反映して代表しているのだと見せかけるのはカタリにあたるものであり脱全体化されなければならない。

 報道のあり方を見てみられるとすると、政権に甘いことを言うことが多くなっていて、政権に同調や服従することが多くおきている。政治の権力の顔色をうかがい空気を読んでそんたくをするたいこ持ちや権力の奴隷が上に引き立てられやすい。政治の権力からの呼びかけにすなおにしたがう主体だ。そのいっぽうで政権の顔色をうかがわずに空気を読まない人はわきに追いやられていてその数は風前のともし火だ。

 政権がカタリを用いすぎることによって、社会の全体にかたよりがおきてしまっている。政権によるひどいカタリがもとになって社会の中にかたよりがおきている。かたよりをよりうながす。かたよりとはいっても許容できるものも中にはあるから、少しでもそれがあってはならないとは言えないものだが、許容できる範囲を超えた不当なかたよりがいろいろにおきていることは否定することができそうにない。

 自由主義(liberalism)においては普遍化できない差別がおこらないようにすることがいるが、これがおきてしまっていて、時の政権が特権化されることが平気で許されてしまっている。権力の濫用がおきていることで独裁や専制の動きがおきていて、権力の行使に十分な歯止めがかかっているとはいえず、抑制と均衡(checks and balances)がきちんととられていない。

 日本の社会の中に色々なかたよりがおきてしまっていてそれが放ったらかしになってしまっているのだとすると、それを何とかするためには政権は日本学術会議のことをやり玉にあげて叩くことにかまけているのは適したことだとは言えそうにない。政権は自分たちのことを自己批判して自分たちを脱中心化するべきだろう。かたよりのもとは政権にあるのであり、政治の権力がカタリを用いすぎることがわざわいしている。政治の権力のカタリが社会の中のさまざまな不当なかたよりを生む。そうした面もあるだろう。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司