ウイルスの専門家による乱―政権と専門家とのあいだの差異性

 ウイルスの専門家が、乱をおこした。そう報じられている。

 政権に助言を与えるウイルスの専門家による集団がある。その集団の長が、これまでとは少しちがい、政権とはちがうことを言った。政権とは足並みをそろえないことを言ったのである。

 政権とは足並みをそろえずに、東京都で夏に五輪をひらくことに危うさがあることをさし示したのがウイルスの専門家の集団の長だ。このことについてをどのように見ることができるだろうか。

 距離の近さと遠さでいうと、政権と距離が近いのは他律性(heteronomy)による。権力の奴隷でありたいこ持ちだ。中心に位置する。

 政治の権力と距離が遠いのは自律性(autonomy)による。政権と距離が遠いことによって毒を持つことができる。辺境(marginal)に位置するものだ。

 薬と毒があるなかで、薬が毒に転じたり、毒が薬に転じたりすることがある。これは現代思想ではパルマコン(ファルマコン pharmakon)と言われるものだ。薬が毒に転じるのは、甘い言葉やおいしい話にはわなや毒や裏があるのがあげられる。毒が薬に転じるのは、ことわざで良薬は口に苦しとされる。

 どのようなあり方がよくないのかといえば、政権とべったりと距離がくっついてしまい、距離感が失われるものだ。日本の社会では、政権とべったりと距離がくっついてしまい距離感が失われることが多い。政権とかんたんに一体化してしまう。政権の呼びかけにすなおに応じる自発の服従がおきやすい。政権とのゆ着や談合がはびこる。権威主義が強いためだ。

 日本の社会のなかではあまりとられることがないが、どのようなあり方がのぞましいのかといえば、自律性によるものだ。政権と距離をとり、政権を対象化して行く。毒が持てるようにして、自分が辺境にあるようにする。

 政権と距離が近い中心に位置するところからは創造性や革新性があることはおきづらい。創造性や革新性があることは、政権とは距離が遠い辺境からおきることが多い。

 歴史において大きな創造性や革新性をなした人は、中心ではなくて辺境に位置していたことが少なくない。中心ではなくて辺境にあるからこそ毒をもつことができて、その毒が創造性や革新性につながる。

 学問の専門家は、できれば中心ではなくて辺境に位置するようにして、毒をもつことがいる。毒によって創造性や革新性をもてるようにするのがあってほしいものである。毒を持たないで、中心に行ってしまい、政権との距離が近くなると、権力の奴隷と化す。政権のたいこ持ちになり下がる。

 まったく政権から離れているのではなくて、政権と関わりを持っているのであれば、しがらみがおきてしまう。しがらみが災いすることになり、他律性によって政権に動かされてしまう。政権との距離が失われて政権とぴったりと一体化してしまう。

 人間は社会内存在であることからあるていど他律性によってしまうのはしかたがないにしても、それがあるなかで自律性によるようにすることが大切だ。他律性によるなかでどれくらい自律性によることができるのかが問われることになる。社会内存在であることから他律性によることになり政権の空気を読んでそんたくせざるをえないところがあるとしても、それだけで終わってしまってはまずい。

 政権のやることなすことにすべてしたがってはい(yes)と言うのではなくて、政権にたいして否(no)を言えるような自律性のところがないと、ただの権力の奴隷や政権のたいこ持ちになり下がるだけだ。政権との距離が近い中心にいるだけで終わらずに、そこから距離をとって辺境人(marginal man)にいかになれるのかが肝心なところだ。

 日本の国は辺境や辺境人を大切にしないでうとましいものだとすることが多く、中心や中央への志向性が強い。異端を悪いものだとして正統をよしとしがちだ。そこが少しでも改まったらよい。辺境や異端にたいしてよき歓待をして客むかえ(hospitality)をすることがあればよい。

 参照文献 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『美学理論の展望』上利博規(あがりひろき) 志田昇(しだのぼる) 吉田正岳 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『砂漠の思想』安部公房 『東大現代文で思考力を鍛える』出口汪(ひろし) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)