補助金や美術展への選定のしかたがおかしければ、表現の自由に問題がおきてくる、ということは言えるだろう

 おれの表現を補助金や美術展に選定しないのなら、表現の自由の侵害だ。

 あいちトリエンナーレについて、補助金の交付をとりやめることを文化庁は決めた。そのことについて、テレビに出ていた識者は、文化庁の決定を不服とする美術家の言いぶんをこう説明していた。

 テレビに出ていた識者が言うこと(美術家の言いぶん)は、明らかにおかしいことだということが言えるだろう。というのも、これがもしも正しいのであれば、極端に言えば、だれかが表現をして、その表現をした人がのぞめば補助金や美術展に選定されることが、表現の自由があることになってしまうからだ。

 表現の自由があるということは、表現した人がのぞめば補助金や美術展に選定されること同じことだとは言えそうにない。

 あいちトリエンナーレ補助金を交付しないことを文化庁は決めたが、そう決めたことについて批判が投げかけられている。この批判に向き合うことが、文化庁およびいまの時の政権に求められることである。

 表現に補助金を交付するということは、税金を配分することであって、それはその表現を承認することだ。問われているのは、文化庁やいまの時の政権が、どういった表現を必要なものと見なして、それを許容するのかだ。表現を必要でないと見なしたり、許容しないと見なしたりするのなら、そのわけを明示するようにして、説明をしてもらいたいものである。

 自由主義における普遍化の可能性から見てみると、補助金を交付しないと文化庁が決めたことについては、批判を投げかけられるところがある。税金の適した使い方ということにおいても、たとえば首相が春に開く桜を見る会のことがある。とくに意味のない(ように見うけられる)、首相にとっての宣伝や広告の効果を持つもよおしに何千万円もかけるのであれば、文化や芸術や学問にもっとお金をかけたらどうだろうか。

 文化庁が決めたことには、自由主義の普遍化の可能性から見て批判できるところがあるので、批判を投げかけるのはおかしいことだとは言えそうにない。一か〇かや白か黒かということではないにしても、文化庁やいまの時の政権がまったく正しいということにはならないだろう。文化庁は、補助金の交付をとりやめることを決めたことの記録を残していないし、意思決定の過程が透明ではない。文科相は、文部科学省の長であるのにも関わらず、自分が決めたのではないとして、指示していないと言っていて、責任逃れをしているように映る。

 参照文献 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)