いまの日本の社会における表現の自由と、全体の右傾化―表舞台での表現を不自由にさせる力の介在

 中国やロシアに比べたら、日本にはまだ自由がある。言論や表現の自由が大きい。そうした日本の中にあって、権力に抗うことを言うのは、たいしたことではない。同じことを中国やロシアでやったら、たいへんな目にあう。そうしたことがウェブで言われていた。

 たしかに、中国やロシアと比べれば、日本には自由があると言えるだろう。自由の度合いが大きい。そうであるにしても、いまの日本において、国家や権力に抗うことを言うのは、そこまで易しいことだろうか。そう問いかけてみることができる。

 いまの日本において、国家や権力に抗うことを言うのは、そう易しいことではないのではないだろうか。易しくはないというのは、表舞台でそれをやることについてである。目をつけられづらい、目だたないところで言うのはそう難しいことではない(このブログのように)。

 表舞台を見てみると、そこで活動している人の少なからずが右傾化しているのだと個人としては見なせる。全体として右傾化している。右傾化しているというのは、国家や権力にたてつかないということであって、きびしく見れば、これは易きに走っているものである。

 右から左まで色々なことが言われていて、多元性によっているのだとは言えず、一元性になっているところがある。全体が一つの方向に走っていってしまいやすい。嫌韓だとなれば、そうではなくて好韓だというふうに、色々なことがさまざまに言われるのではなくて、嫌韓なら嫌韓だということで一つの方向になびきやすい。

 右傾化しないで、国家や権力に抗うのは、それをする人にふりかかる抵抗が大きい。抵抗の大きさは人それぞれだろうけど、基本としてそういうことが言えるのではないだろうか。この抵抗というのは、力によるものを含む。この力があらわれ出たのが、あいちトリエンナーレで、ガソリンを巻くぞという行動や、電話ではげしい抗議をした脅迫まがいのできごとだ。

 右も左も、どちらのことを言うのであっても、同じように自由にできるというのではなくて、とりわけ左のことを言うことができづらい。それが見てとれるのが、政治の世界や報道の世界などの、表舞台の活動だ。そこでは全体が右傾化してしまっているというのが個人としての感想だ。

 右よりも左のことを言うほうが、可傷性(ヴァルネラビリティ)を持っていて、悪玉化されやすく、贖罪の山羊(スケープゴート)となりやすい。どちらかというとそう言える。そのなかで、右ではなく左のことを言うのは、易しいとは言えず、それなりの勇気があることがいる。勇気というのは、(それ)にも関わらずというものである。

 右と左というふうに、かんたんに分けてしまうのは単純すぎるので愚かなことではあるが、ここで言う右というのは、国家や権力をたてにして、勇ましいことを言うようなことを含む。勇ましいことを言うと、受けがよいのはあるが、それに歯止めをかけることのほうが大事である。戦前や戦時中は、勇ましいことを言うことにたいする歯止めをかけることに失敗して、戦争に走っていってしまった。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考のレッスン』丸谷才一 『事典 哲学の木』