二〇二〇年の東京五輪における会場への旭日旗の持ちこみの問題―類似からの議論と、滑りやすい坂の議論

 二〇二〇年に東京五輪が開かれる。その会場に旭日旗(きょくじつき)を持ちこむことが事実上では許されているが、それにたいして韓国から批判の声が投げかけられている。

 個人としては、会場に旭日旗を持ちこむ必要性はとくにあるとは言えないので、禁じてしまえばよいのだと見なしたい。それとはちがい、会場へのはたの持ちこみはよしとするべきだ、つまり禁じるべきではないということが言われている。

 言いぶんとしては、こうしたことが言われていた。一つには、愛知県で行なわれた文化と芸術のもよおしであるあいちトリエンナーレにおいて、表現の不自由展のもよおしが行なわれたが、これをよしとして、表現の自由を認めるのであれば、それと同じようにして、東京五輪での旭日旗の持ちこみも認めなければおかしいということがうったえられていた。

 もう一つの言いぶんとしては、かりにもし会場への旭日旗の持ちこみを禁じるとすれば、それは韓国からの批判の声を日本が飲みこんだことになって、そこから韓国はさらに、旭日旗だけではなく日本国旗の持ちこみも禁じるべきだと言ってくるのにちがいない、という見かたがとられている。

 これらの言いぶんは、一つ目のものでは類似からの議論がなりたつかに疑問符がつく。二つ目のものでは、この言いぶんは滑りやすい(転がりやすい)坂の議論になっている。

 愛知県で行なわれたあいちトリエンナーレは、文化や芸術のもよおしであって、それと東京五輪とはもよおしの性質が異なっているので、同じものとしてあつかうのがふさわしいとは必ずしも見なしづらい。もよおしの性質がちがうのだとすると、ちがうものとしてあつかうのが適している。東京五輪は、人々が表現をするためのものではなくて、選ばれた人が運動の種目で競い合うもよおしだ。

 会場への旭日旗の持ちこみを禁じたら、日本国旗の持ちこみも禁じるべきだという声が韓国からおきるというのは、滑りやすい坂の議論となっているものだが、現実にほんとうに滑りやすいかどうかは定かではない。滑りにくいこともあるだろう。

 日本にたいして韓国が言ってくることそのものに重点があるのだとは見なしづらい。いくら日本にたいして韓国が何かを言ってきたとしても、日本はそれにただ従わされるのではないのだから、日本にたいして韓国が何かを言ってくることそのものに害があるのだとは見なせないものだろう。日本がとれる手としては、日本にたいして韓国が何かを言ってきたとしても、それがまともにとり合う内容のともなっていないものであれば、とくにとり合わないという手もとれるはずだ。

 日本にたいして韓国が何かを言ってくることそのものに害があるというよりも、その言ってくることが現実としてどういうことをもたらすかに重点を置いて見るのはどうだろうか。そこに重点を置くとすれば、旭日旗について韓国が言ってきていることは、へたをすると国際的な問題になりかねない危なさがある。国際的に波紋が広がるおそれがある。そのいっぽうで、日本国旗について韓国がそれの持ちこみを禁じるべきだと言ってきたとしても、そのことが国際的な問題になるとはあまり考えづらい。国際的に波紋はとくに広がらないのではないだろうか。

 心配が杞憂に終わるかもしれないので、絶対にこうだということは言えないのはある。悲観論だけではなく楽観論もまたとれる。悲観論にもそれなりの理があるので、楽観論を確かにとれるのではないのもまた確かだ。

 旭日旗の持ちこみの是非について、滑りやすい坂の議論によるのだと、一を認めるとそこからさらに一〇を認めなければならない羽目におちいるといったとらえ方になる。

 一を認めたからといってそこからさらに一〇を認めなければならない羽目におちいるとは限らないし、逆に見れば、一を認めないことで、それがためにかえって一〇より以上の害がおきることがないではない。一を認めてさえいれば、一〇の害がおきるのは防げた。とはいっても、一を認めない、つまり会場への旭日旗の持ちこみを禁じないからといって、一〇より以上の害がまちがいなくおきるとは限らないのはあるが。

 参照文献 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信