歴史の正しさと、近道(最短距離)と遠回り(最長距離)―直接性と間接性

 韓国や、日本の国内にいる自由主義者(リベラリスト)が言うことはまちがいだ。それらが言っている歴史はまちがった歴史だ。日本の愛国の歴史こそが正しいのだ。ツイッターのツイートでそう言われていた。

 韓国や、日本の国内の自由主義者が言っていることは、まちがっていることだということで、決めつけてしまってよいものだろうか。歴史で言えば、その正しさやまちがいというのは、正しさそのものというよりは、議論や意思疎通によるものだ。

 歴史の正しさということで、一気にそこに向かって行ってしまうのではなくて、その実質に向かう手まえの、形式の手つづきのほうが意味あいが大きい。

 歴史の正しさでは、その実質に少しでも近づいて行くためには、議論や意思疎通といった形式の手つづきをどれだけ重んじられるのかにかかっているのであって、それをないがしろにしてしまえば、むしろ実質から遠ざかってしまう。

 いきなり実質に向かって行って、そこに近づいて行こうとしても、ほんとうの意味で近づいていることにはなっていなくて、かえって遠ざかってしまっていることがないではない。

 極端に響いてしまうかもしれないが、ほんとうの歴史の正しさの話というのは、歴史の正しさの実質についての話ではなくて、むしろ形式の手つづきについての話だと言えるのではないだろうか。いきなり歴史の正しさの実質に向かって行ってしまうのは、本当ではなくて、にせの歴史の正しさのおそれが否定できない。

 議論や意思疎通なんかの、形式の手つづきができるかぎり阻害されないようにするようにして、そのうえで歴史の正しさの実質に少しずつ近づいて行く。そうしたほうが、一見すると遠回りや時間がかかるように見えて、かえって近道になるのではないだろうか。

 てっとり早い促成栽培ではなくて、時間はかかるが低温熟成になるようにするとよい。促成栽培によって、最短距離をとろうとして、議論や意思疎通を欠いてしまい、陰謀理論を持ち出すのだと、近道をとっているようでいても遠回りになっていて、正しさの実質から遠ざかってしまっているとしたら逆効果だ。

 てっとり早い促成栽培は、直接性によって、じかに正しさの実質をとろうとするもので、拡散や発散をするものだ。拡散や発散というのは、外にはっきりと言い切る形であらわすのをさす。そうすることに待ったをかけて、低温熟成になるようにして、すぐに拡散してしまうのではなくて、収束するようにする。収束というのはとちゅうの過程をふんで行って、最終の結論としてこうだとは定めないようにするのをさす。

 歴史の正しさの実質とは、終わりなき収束の過程だということができそうだ。ほんとうに収束してしまい、はっきりと拡散できるのなら、歴史の学問の営みには終止符が打たれることになる。

 参照文献 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『究極の思考術』木山泰嗣(ひろつぐ) 『最新 読書の心理学』岡田明 『書物の達人 丸谷才一川本三郎