表現とその真意―真意をつかめるかどうか

 表現が稚拙だった。真意が伝わっていなかった。与党である自由民主党の議員は、ツイッターのツイートなどについてそう言っていた。自分の表現について、真意が伝わっていなくて、まちがって受けとられたというのである。

 真意が受け手に伝わらないというのは、あらためて見るといったいどういうことなのだろうか。それを見るさいには、自民党の議員が言っていることを敷えんすることができる。

 敷えんしてみると、自民党の議員の個別の表現だけにとどまらず、あらゆるテクストについて、真意が伝わっていない可能性をさし示すことができる。それゆえに、真意というものは無限に後退して行く(真意の真意の真意の真意、というふうに)。また、自己言及ともなる。真意が伝わっていなかったという言いぶんについてもまた、(自己言及的に)正しく真意が伝わっていないおそれがある。

 自民党の議員の個別の表現にとどまらず、すべてのテクストについて、正しく真意が受け手に伝わっていないおそれがあるし、またそもそも真意というものを仮定することができるかどうかには疑問符がつく。あらゆるテクストは、多かれ少なかれすべて嘘だということもできなくはないだろう。生の経験そのものではなくて、あいだに言葉が媒介されていて、言葉の文法の形式に押しこめられている。

 真意を重んじるのは意図主義と言われるものだとされる。意図の誤びゅうがおきるとされる。意図がありのままにあらわされているとは限らず、隠されていたり逆だったりする見こみはつねにある。

 受け手の自由なとらえ方を重んじることができるとされているのがあって、これはテクスト理論と言われる。自由とはいっても、でたらめでよいというのではないが。

 参照文献 『心理パラドクス 錯覚から論理を学ぶ一〇一問』三浦俊彦 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)