アベノミクスを批判することは悪いことなのだろうか。
自由民主党の安倍晋三元首相は、経済の政策であるアベノミクスを他の人が批判することに、強い不快感をしめしているという。批判に神経をとがらせている。
少なくとも、自民党にいる政治家であるのなら、アベノミクスを批判してはならないのだろうか。
安倍元首相はアベノミクスの生みの親ではあるけど、そのさい、安倍元首相つまりアベノミクスといった式になっていそうだ。この式ははたしてなりたつのだろうか。
式がなりたたないと見ることもできる。安倍元首相つまりアベノミクスではない、となる。それぞれを切り離すことができる。
アベノミクスの生みの親なのが安倍元首相だから、アベノミクスが子で、安倍元首相は親だとなる。子であるアベノミクスをあまりにもかわいがりすぎて、子をだめにしてしまう。親ばかである。
子にたいして親は認知のゆがみをもつことがある。子を中立に見られず、含意をこめてしまう。含意をこめないようにして、子のことをできるだけ中立に見ることが、子を客観に見ることにつながる。子にたいして含意をこめてしまうと、親が認知のゆがみをもつことになり、認知がゆがむ。
アベノミクスはテクスト(作品)で、安倍元首相は作者だとしてみる。テクストをつくったのが作者なのだとしても、テクストと作者は別々だとできる。作者の死だ。
テクストは作者の意図から自由なのがあるので、テクストをどのように見なすのかはそれぞれの人の自由だ。作者が重要なのではなくて、テクストを受けとる人のほうが重要になる。作者は死んでしまっているので、それは読者の誕生によってあがなわれなければならない。批評家のロラン・バルト氏はそう言う。
いくら生みの親だからといっても、安倍元首相の意図や視点がとりわけ特権化されるのではない。生みの親であるからこそ、安倍元首相はアベノミクスにたいして認知のゆがみを多く持ってしまっているおそれが低くない。生みの親であることがかえってあだになっている。
人間には合理性の限界があるから、カミサマノミクスでもないかぎりは、限界があり、何らかの失敗がおきることになることが多い。ニンゲンノミクスなのがアベノミクスだから、人間のやることには失敗がつきものだ。人間はいろいろな思いちがいをしでかす。まちがいをおかしやすい。
かりに、アベノミクスがとんでもなく大成功したのだとしても(かりにそのように仮定したとしても)、そのことは、安倍元首相とは関わりがなさそうだ。安倍元首相がすごいことをとくに意味するのではない。
もしも、悪いことがおきたのであれば、それは自分のせいだと見なす。もしも、よいことがおきたのであれば、それは自分の力ではないのだとする。政治家はそうすることがのぞましいけど、それと逆をやっているのが安倍元首相だろう。悪いことは他の人(民主党など)のせいで、よいことは自分の力なのだとしている。
原因の帰属(特定)で、悪いことがおきたことの原因は自分の外に帰属させて、よいことがおきたことの原因は自分に帰属させる。そういう原因の帰属のさせ方をしているところに、安倍元首相の大人(たいじん)でなさが出ている。少しでも自分をよく見せたいのや、少しでも自分がほめられたいのが見てとれる。
参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『できる大人はこう考える』高瀬淳一