桜を見る会と、白か黒かの二分法―連続観によって見られる

 桜を見る会とその前夜祭では、いまの首相による政権のおかしさがとり上げられている。これについて、いまの政権が白か黒かの二分法によって見られる。

 二分法で見たら、いまの政権は、とにかく黒だというしっぽをつかませないことにやっきになっている。黒だというしっぽだけは何としてでもつかませないように動いている。

 いまの政権が白か黒かを見るさいには、大きく分けると二通りの見かたがなりたつ。一つには、じかに黒だというしっぽをつかむことだ。これは直接のやり方である。それだけではなくて、間接のやり方で見て行くこともできる。

 間接のやり方で見て行くのは、じかに黒だとは言えないとしても、その反対に白だという仮説を立ててみて、白であればこうだろうというふうに見て行く。白であればこうだという仮説を否定できれば、黒であるとおしはかれる。

 いまの政権がもし白だと言えるのであれば、白であるさいにはこうだという行動をとっていなければならない。白なのであれば、その証拠となる記録の資料を隠したり消去したりすることはない。白であれば、求められれば(求められなくても)いつでも十分な説明をすることができる。そういう行動がとれていないのだとすれば、矛盾があるのだと言わざるをえない。

 じかに黒だとは言えないにしても、間接のやり方で見て行けば、少なくとも灰色であるし、つっこんで見れば黒だというふうにも見られる。

 じかにではなくても、間接のやり方から見て、白とは言えず、灰色もしくは黒だと言えるのであれば、まったく少しの問題もないというのはなりたたない。少なくとも(大きさは置いておくとしても)問題があるのだということは言わなくてはならない。

 いまの政権が、もし桜を見る会やその前夜祭などのことについて、まともに問題と向き合うつもりが少しでもあるのだとすれば、そこにまったく問題がないということは言ってはならないのではないだろうか。そして、問題があることを認めるのだとすれば、そこに説明責任がおきてくる。

 じかに見て行くのだけではなくて、間接に見て行くことをくみ入れれば、桜を見る会やその前夜祭について、いまの政権は、白であるつまり問題がないという行動をとれているのだとは見なしづらい。白であるとか問題がないと言うには、苦しい行動をとっているのであって、灰色もしくは黒だという見かたがとれる。

 灰色や黒だと見られるのがあることから、白か黒かの二分法の見かたではなくて、そこから連続観の見かたに移って行く。もしも二分法であれば、くだらないことにいつまでもかかずらっている野党だけが悪いということが言えるかもしれないが、そこから連続観に移っていることをくみ入れると、野党だけが悪いということはできなくなる。少なからずいまの政権や与党が悪いのだと言わざるをえない。

 二分法ではなくて、連続観の段階に移っているのだと見られるとすると、いまの政権には説明責任が求められるし、いままでの言動の矛盾についての責任もまた問われてくることになる。いまの政権が白ではなくて灰色や黒だということがあかし立てられている面があるが、それについていったいどういう説明や責任のとり方をするつもりなのだろうか。それらを放ったらかして逃げ切るつもりなのかもしれないが。

 論点は色々にあって、そもそも大したことではないとか、かりに悪いとしても小さいことだとか、ほかにもっと大きなことがあるとか、そういうことは言えないではないだろう。問題ありと見るにせよ、なし(そう大したことではない)と見るにせよ、いずれにせよ政治的であるというか、最終の見かたとは言い切れないかもしれない。政治のことがらだから、それを大きいと見るにしろ、小さいと見るにしろ、関心をもつにしろ、もたないにしろ、政治的になるのは当たり前のことではあるが。

 個人的には、いまの政権が論点をわざと外したりずらしたりごまかしたりするのはいけないことで、それによって時間や労力が無駄に空費されてしまっているのだと批判したい。いまの政権にきびしい目を向けるとするのなら、桜を見る会や前夜祭のことだけではなくて、より一般化してみると、色々なことについて、論点を外したりねつ造したり意図して操作したりするのが常とう手段となっているのがある。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ)