桜を見る会とその前夜祭と、修辞学でいわれる比較からの議論―なおさら論証と、問題の解決

 桜を見る会とその前夜祭について、いまの首相による政権は批判を受けている。このことについて政治でとり上げることはふさわしいことなのだろうか。

 政治においてとり上げるのにふさわしいかどうかについては、修辞学の比較からの議論を当てはめて見られる。桜を見る会と前夜祭が、とり上げるに値するかどうかは、ほかのことがらとの比較によって見られる。

 桜を見る会と前夜祭よりももっととり上げるべき重要なことがほかにあるというのは、修辞学でいわれる比較からの議論が当てはめられて、それはまたの呼び名ではなおさら論証と言われる。

 なおさら論証で見てみると、桜を見る会と前夜祭をとり上げるくらいであれば、なおさらほかのもっと重要なことをとり上げるべきだ、となる。または、ほかのもっと重要なことを(あまり)とり上げないのであれば、なおさら桜を見る会と前夜祭をとり上げるべきではない。

 この比較による見なし方を批判してみると、桜を見る会と前夜祭については、ほかの政治のことがらとは性質がややちがう、ということが言えるだろう。政治において不正が行なわれたかどうかが問われているのだ。性質がちがうことについては、ちがうようにあつかうのがふさわしいから、ほかのことといっしょくたには論じることはできなくなる。

 大したことではないかそれとも大したことがあるかの点については、大したことではないのなら(必ずしも)とり上げなくてもよいし、大したことであればなるべくとり上げるべきだとなる。桜を見る会と前夜祭は、大したことではないとは必ずしも言い切ることはできづらく、見かたによっては大したことであるという見なし方がなりたつ。

 桜を見る会と前夜祭については、その疑惑が晴れなくてもよいのだという人はそこまで多くはないのではないだろうか。疑惑が晴れないままであるよりかは、どちらかといえば晴れたほうがよいだろう。そうであるとすれば、疑惑が晴れていない状態から、晴れている状態に近づいて行くのがのぞましい。

 のぞましい状態とのぞましくない状態の二つがあって、のぞましい状態に速やかに向かうのをはばんでいるのが、いまの首相による政権のやっていることなのではないだろうか。そのことによって社会的矛盾が引きおこされてしまっている。ほんらいはかからなくてもよい費用や労力がかかってしまっている。

 はたして、桜を見る会と前夜祭のことに、(むだに)政治の費用や労力をかけないことが、のぞましい状態だと言えるのだろうか。そうではなくて、何がのぞましくない状態なのかといえば、疑惑を追及するさいに、ほんらいはかからなくてもよい費用や労力がよけいにかかってしまっているところがある点だろう。そうした中で疑惑の追及が進められているところがあって、いうなれば、ほんらいは走りやすい平坦な道を進んで行けるのに、いまの政権がそれをはばんでいるせいで、走りづらいでこぼこの道を走らされてしまっている。そういうのぞましくなさ(進みづらさ)があって、そこをくみ入れることがいるだろう。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修 『創造力をみがくヒント』伊藤進