桜を見る会と、政治の議論でとり上げるべきこと―何を(what)と、どのように(how)、がある

 国会で、桜を見る会のことをとり上げるのは、よくないことだ。もっとほかに大事なことがあるのだから、それをとり上げるべきだ。テレビ番組のキャスターはそう言っていた。

 たしかに、国会でどのようなことをとり上げるべきなのかというのは色々なことが言えるのはあるだろう。そのさいに、議論ということでは、議論の題材とやり方を分けて見られる。

 議論の題材とやり方をいっしょくたにしないで分けて見られる。題材がよければやり方もそれにともなってよくなるわけではないだろう。題材がよいとしてもやり方がよくなければあまり意味はない。題材がそこそこでもやり方がよければうまくすれば十分に意味がある。

 議論をきちんとやるようにするためには、まず議論をやる気にならないとならない。議論をやることにたいしての動機づけを持たなければならないだろう。

 いまの与党やいまの政権にとって都合のよいことであれば議論をする気になって、都合が悪いことであれば議論をする気にはならない。そうしたことでよいのだとは見なすことはできない。そもそも、いまの与党やいまの政権にとって都合のよいことが国民の益になって、都合の悪いことは益にはならないとは言えず、それらは自明であるとは言えそうにない。

 議論の題材がどうかということとは別に、議論のやり方では、形だけの議論をやるのではほんとうの意味で議論をすることにはならないだろう。形だけの議論をやったところで、ほんとうの意味では議論をすることにはなっていないのであれば、とりあえず議論をやったという形だけがあとに残ることになって、とくに意味のあることはあとには残らない。

 国会で議論をするさいには、何を、どのように行なうかというのがあって、何をを重んじるだけでは足りず、どのようにというのもまた欠かせないものだろう。どのようにということでは、民主的で効果のある議論になるようにすることがいる。民主的であるためには公正や適正であることがいる。効果があるようにするためには、質問と答えがかみ合っていないとならないし、できるだけすれちがわないようにしなければならない。

 日本のいまの国会では、何をというのもおかしいし、どのようにというのもおかしい。どちらも多かれ少なかれ駄目なところがある。人によって何をとり上げるのが一番のぞましいのかという優先順位がちがうだろうから、そこについてはみんなが満足するようにはなりづらいから、完全に満足することは難しい。

 何をということだけではなくて、どのようにというのもないがしろにはしないようにして、きちんと民主的で効果のある議論が行なわれるようにすることがないと、ただとりあえず形だけ議論をやったということになるのにすぎない。ほんとうの意味で議論をやったことにはならないことになる。

 ほんとうの意味でというのはあくまでも理想論であって、現実には難しいのはあるが、一歩ずつ理想に近づいて行くために、たえざる改善や修正や反省をすることはいることだろう。基本となるものである、質問と答えがかみ合うようにしたり、すれちがわないようにしたり、不毛な水かけ論にならないようにしたりすることに気をつけられれば、どのようにの点を改められる。それらがなおざりになっていれば、たとえ重要なことがとり上げられたのだとしても、意味のある議論はのぞめそうにはない。

 参照文献 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『官僚に学ぶ 人を動かす論理術 専門家が実践する問題解決の方法』久保田崇(たかし) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸