総裁選と、野党の埋没―注目や着目と埋没

 総裁選が行なわれる。与党である自由民主党でそれが行なわれるなかで、四人の候補者が名のりをあげている。四人の候補者がたがいに競い合う形になっている。

 報道でたくさんとり上げられることになっているのが総裁選だ。自民党を宣伝することになっているのがあり、自民党を利することになっている。それによって野党が埋没しているのがある。総裁選に目が向けられることによって野党が埋没してしまうことをどのように見なすことができるだろうか。

 たしかに、自民党で総裁選が行なわれることによって、人々の関心がそこに向かうことになるのはある。とりたててどうでもよいことやとるに足りないことではないのが総裁選だ。たくさんの報道が行なわれることによって、ますます人々の関心が高まることになる。

 いっけんすると総裁選についての報道がたくさん行なわれるのはあたり前のことのようではあるが、かならずしも当たり前のことだとは言えそうにない。あたかもとうぜんのなり行きのように、総裁選についての報道がたくさん行なわれることについてを見なすことはできづらい。

 総裁選だけにかぎらず、テレビなどの報道でとり上げられることについてを一般として見られるとすると、報道でたくさんとり上げられることだからといってそのすべてに価値や意味があるとは言えそうにない。報道でたくさんとり上げられることの中にはくだらないことも少なくはない。たくさんとり上げられるのは、量が多いことだが、量が多いからといって質が高いとは言えないのがある。

 大前提として、テレビなどの報道でたくさんとり上げられるものには価値や意味があるとは言い切れない。報道でどのようなことをとり上げるのかと、そのとり上げるやり方が適正なものではなくて、効率が優先されてしまうことが多い。商売がからむことで視聴率や利益をあげることが優先されがちだ。

 順番を逆にしてみると、報道でたくさんとり上げられることに価値や意味があるのではなくて、価値や意味があることをできるだけ報道でとり上げるようにするべきなのである。そのためには報道のあり方が適正であることがいるが、それよりも商売による効率が重んじられがちである。そこにまずさがあることは否定することができない。

 価値や意味があることが埋没しがちになってしまう。野党よりも与党のほうが価値や意味があるとなり、与党である自民党で行なわれる総裁選がたくさん報じられることになる。与党である自民党と野党とのあいだに階層(class)の格差がおきているのである。

 与党と野党とのあいだに階層の格差があるのをそのままにしているのが報道のあり方だと言える。格差をそのままにしていることで野党が埋没することになっている。階層の格差を転じるようにして、上位のものではなくて下位のものに目を向けるようにして、そこをとり上げるようにすることが報道のなすべき仕事の一つだ。格差による埋没をそのまま放置するのではなくてそれを是正して行く。それができていないのがあり、階層の格差が固定化されてしまっている。

 人々の関心の高さがあるのだから、与党である自民党の総裁選を報じるのはあってもよいことだ。それはあってもよいことではあるが、なにに多く目が向けられて、なにが埋没しているのかは、報道のさじかげんしだいによるのがあり、目を向けられていることだから意味があるもので、埋没しているものだから意味がないものだとは言えそうにない。

 ただたんに、目が向けられているのや埋没しているのがあることを客観の現象であるかのように見なすのではなくて、その現象がなぜおきているのかを見て行きたい。なぜおきているのかを見てみれば、報道のさじかげんしだいでそのちがいがおきてしまっているのが見てとれる。報道が国家のイデオロギー装置と化していて、国家の政治の権力に都合がよいように動いてしまっている。

 国家のイデオロギー装置となっているところが報道にはあるので、報道のあり方のすべてが悪いとはいえないまでも、少なからず悪いところがある。現実に報道されていることやそのあり方が正しいとは言い切れないのがあるので、報道には意図性や政治性や作為性が少なからずある。意図性や政治性や作為性が報道にはあることをくみ入れるとすれば、報道されないで埋没してしまっていることの中にこそ重要なことがあり、その多くがとり落とされてしまっていると言えそうだ。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり)