総裁選と、左派の政策―政策の実現の見こみはどれくらいあるのか

 総裁選が行なわれる。与党である自由民主党の、四名の総裁選の候補者たちがたがいに競い合っている。そのなかで、候補者によってはどちらかといえば左派の政策をうったえているのがある。選択の夫婦の別姓や最低保障年金などだ。

 左派の政策が言われているのが部分としてはあるのが総裁選だが、そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを構築主義(constructionism)によって見てみたい。

 構築主義においては、どういったところにどういった問題があるのかは客観であるよりも主観であるとされる。主観であることから問題があるとも言えるし無いとも言えることになる。発言者の主観の発言によって問題が形づくられるのである。

 総裁選の候補者たちのうったえのなかで、これをやりたいとか、これをやったほうがよいといった政策の中には、左派によるものが含まれている。じっさいに候補者が政党の長に選ばれて、国の首相になったとしたら、左派の政策であったとしてもそれを現実化することができるのかといえばそれは必ずしもできづらいものだろう。現実化するのができづらいのは、抵抗や反発の声がおきてしまうからである。左派の政策であれば、右派からの抵抗がおきてくることになる。

 いまの日本の政治は右にそうとうに寄っていて右傾化が進んでいる。どちらかといえば右派の政策が通りやすくて、左派の政策は通りづらい。そうした中でいざ左派の政策をやろうとしたとしても、それを現実化することはそうたやすくはないものだろう。

 右傾化がおきているなかでは、個人や個性の否定や、家父長制の家族のあり方の温存などがとられている。そこを改めるようにして、憲法の第十三条でいわれる個人や個性を重んじることや、家父長制の家族のあり方をなくすようにするのでないと、うわべだけ左派の政策をやろうとしても整合しないところがおきてくる。

 それがよいものだったり必要なものだったりするのであれば、右派の政策だけではなくて左派の政策も行なわれるのがのぞましい。よい政策なのであれば新しい国の首相がそれをなそうとして行くのはかならずしも悪いことではないものの、その下地として、政党の内や外で自由にいろいろな発言ができるようになっていなければならない。憲法の第二十一条でいわれている表現の自由(free speech、free expression)がいかにしっかりと守られているのかだ。ここがしっかりと守られていなくて弱くなっているのがいまの日本の政治のありようだろう。

 政策と発言の関係を見てみると、いっけんするとただたんによい政策を進めて行けばよいように見なせるのがあるが、それよりもむしろ発言が自由にできるかどうかがより重要だ。ここに構築主義が関わってくるのがあり、自由にいろいろな発言をすることがよしとされているなかで、いろいろな発言に接して行く。日常においてそれができるようになっているのかどうかが大切だ。

 上から強引によい政策をおし進めようとすることには危なさがつきまとう。みんながよしとするような一人勝ち型のものだけではなくて、五対五といったように意見が割れる論争型のものも少なくない。一人勝ち型のものもそうだが、とくに論争型のものを上から強引におし進めるのには危険性があり、まちがったことが政治において行なわれてしまうことがおきやすい。

 いっけんすると大事なものであるようなのが政策だが、それよりもむしろその下地となるような発言の自由のほうが大事なのがある。政党の内や外においていろいろな発言が自由に言えるようであるかどうかがもととしてある。上のあり方にさからえずに従わせられて、同調や服従させられるのだと、上にたいしていいえを言えなくなる。上からのしめつけが強くはたらく。上にたいしていいえを言う人間が排除されることになる。まちがった方向に集団が暴走しやすい。

 大きなくくりで言うと、右派か左派かのそれぞれの人の立ち場のちがいによって、よしとする政策が変わってきてしまう。まったく反対の政策をよしとすることがおきることがある。そのさいの具体の政策は絶対化することができずに、相対化されざるをえない。絶対化できずに相対化されざるをえないのがあるから、かならずしも具体の政策が大事だとは言えないところがある。それよりもいかに政党の内や外で自由に発言をすることがよしとされているのかがより大切だろう。

 構築主義の点からすると、よい政策なのだからそれを上からごういんにおし進めて行くのではないことがいる。上からごういんによしとすることをおし進めて行き、じゃまな者は排除して行くといったやり方ではなくて、できるだけ自由な発言が活発に行なわれるようにして行く。政党の内や外でさまざまな人が自由に発言をして行くことがよしとされてはいないのが現状だ。

 自由に発言をすることができづらい現状があるのは否定することができない。不自由になっているのがあるから、そこを改めて行きたい。いろいろな人がさまざまなところで発言を自由にできるようにして行くことがまず先決であり、いろいろな発言が出回るようにして行く。

 いろいろな発言が出回っている中で、いろいろな発言に接して行く中で政策をすすめて行く。上からごういんにものごとをおし進めるのではないようにすることがいり、それは右派のものであろうとも左派のものであろうとも同じことだろう。政策のよし悪しがかぎを握るといったことであるよりも(それも重要ではあるが)、むしろいかに政党の内や外に発言の自由があるかがかぎを握るのだと見なしたい。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進森村たまき訳 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『右傾化する日本政治』中野晃一