テクストとしての現実と、テクストとしての政治家の発言

 アメリカの大統領が新しくジョー・バイデン氏になる。それで新しい大統領の就任式が行なわれる。

 これまでの大統領だったドナルド・トランプ氏はすんなりと政治の権力をゆずりわたそうとはしなかった。自分の支持者を反抗の行動にたきつけたことによって支持者の一部が連邦議会の議事堂に不正に乱入する犯罪がおきることになった。こうしたことがある中で、トランプ大統領の言うことについてを文学で言われるテクスト理論によって見てみたい。

 現実そのものについてをたった一つだけではなくてさまざまな点から見て行けるのがある。たった一つだけではなくてさまざまな点から現実を見て行くことは、現実についてをテクストとして見て行くことになる。

 現実をさまざまな点から見て行くのではなくて、たった一つだけの見かたが正しいのだとするのだと、テクストとして現実を見ないことになる。それによって現実そのものから離れてしまい、虚偽意識によることがおきるようになる。虚偽意識が強まることによって現実からどんどん遠ざかって行ってしまう。

 虚偽意識が強まらないようにして現実からあまり離れすぎないようにする。そのためにはテクストとして現実を見るようにして、たった一つの点からだけではなくてさまざまな点から現実を見たほうが少しは益になる。

 トランプ大統領が言っていることをぜんぶまったくもって正しいものだとしたて上げたり基礎づけたりしてしまう。そうすると、トランプ大統領が言っていることが特権化されることになる。発話者であるトランプ大統領の意図が絶対化されて権威化されることになってくる。

 文学のテクスト理論では、送り手の意図を絶対化するのではなくて、それから自由になることをよしとするのだとされる。送り手の意図を絶対化しないようにすることで、受け手はあるていどより以上に自由にテクストをとらえられることになる。送り手の意図にしばられないでいられるのだ。

 送り手とテクストとは必ずしも結びついているものではなくて、その二つは切り離されているとも見られる。批評家のロラン・バルト氏は作者の死を言っていて、それは読者の誕生によってあがなわれるのだという。

 ロラン・バルト氏のいう作者の死をくみ入れられるとすると、テクストの作者がいるのだとしても、作者の意図にテクストは必ずしもしばられないことになる。作者の意図によってテクストはかならずしも規定されるのではない。

 送り手である作者は死んでいるともいえるから、正しくて善い人物である作者のトランプ氏がいて、そのトランプ氏が言っていることだからぜんぶが正しいとはならないだろう。そのようにして、正しくて善い人物の作者がいて、その作者によるテクストはぜんぶが正しいといったように雨だれ式に正しさが上から降りてくるのではない。正しさや善さが作者からテクストへといったように上から下にこぼれ落ちてくるのではない。

 現実についてをテクストとしてとらえられるとすると、たった一つだけの正しい見かたがあるのではなくなり、いろいろな点から見てみられるようになる。それとともに、政治家が言っていることについてをテクストとしてとらえられるとすると、作者の意図のしばりから受け手はあるていどより以上に自由になれるので、作者とテクストとを切り離すことがなりたつ。作者はテクストを発生させた(つくった)わけだが、発生のもととしての作者とその意図を思いきって無視してしまえるし、少なくともそれらをカッコに入れることがなりたつ。

 テクストの中にはたんに作者が意識して意図したものだけではないものを含みもつ。そこには作者が意識して意図したものではない無意識によるものも含まれていることがあるから、その点からしても作者の意図に完全にしばられているものとは言えそうにない。いろいろなものが中に織りこまれている。

 具体の作者とその意図からいったん切り離して見てしまえるとすると、一般的にいってテクストはそれそのものが完全に正しいものだとはしたて上げたり基礎づけたりできそうにない。そこにはまちがいである誤びゅうがいろいろに含まれているおそれをもつ。まちがいを含んでいるおそれをもつのがテクストなのだから、そこから言えることとしては、テクストの作者が完全に正しい合理性をもっているのだとは言うことはできない。具体の人物であるトランプ大統領が言っていることであってもまちがいを含んでいるおそれが小さくないからうのみにすることはできないのがある。

 参照文献 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら)