表現について、そのねらいと、じっさいに表現されたことと、受けとり方とに分けて見られる

 従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する内容をふくむ作品をあつかう。そうしたもよおしについて、批判の声がおきている。このもよおしには税金が使われていることから、税金を不適切に使っているという声があがっている。

 作品というのは何かを表現したものだが、それについていくつかの視点に切り分けて見ることがなりたつ。表現のねらいと、じっさいに表現されたことと、受けとる人がどう受けとるかだ。

 このうちで、じっさいに表現されたことだけをもってして、それはよくないことだというのは、必ずしも適したことだとは言えそうにない。じっさいに表現されていることだけではなくて、表現のねらいもまた見ることがいるだろう。どういう目的や主題をもって表現されたのかである。

 場合分けをしてみると、いくつかの場合がある。ねらいがよくて、表現されたこともまたよい。ねらいはよいが、表現されたことは悪い。ねらいは悪いが、表現されたことはよい。ねらいも表現されたことも悪い。

 ねらいと、表現されたこととは、相関するところがあるので、そこをくみとることもいるのではないだろうか。そこをくみとることがあってよい。たんに、表現されたことだけを見て、それがよくないということで、ぜんぶが丸々駄目なのだとしてしまうのは、ふさわしくない解釈になることがある。

 かりにねらいはよいのだとしても、それに見あうような表現がとられているのかという問題はある。ねらいに見あわない表現がとられているのだとすればそれは問題ではある。それは、理想(ねらい)と現実(表現されたこと)とのあいだに開きがあるということだ。

 理想と現実とのあいだに開きがあるかどうかというのは、受けとる人の受けとり方のちがいによっている。誰がどう見ても問題があるということもあるが、そうではないこともまたある。受けとり方によっては、問題がないと受けとれるのであれば、人によってちがった受けとり方をゆるす。大きな効用を得る人もいるだろうし、効用を大きく損なう人もいる。そうしてさまざまな多様な受けとり方を許すものは、それそのものがすぐれたものだということもできる。

 すぐれたものというのは、ただ一つの色によってぬりつぶすことができず、色々な受けとり方をゆるすのだと言われている。一つの色だけによるのではなくて、さまざまな色を含む。正と負や虚と実を含みもつ。

 表現されたものをテクストだと見なせるとすると、テクストというのは織り物(texture)という意味だそうで、そこには意識されたものから意識されていないものまで色々なものが織りこまれている。作品と言うと決まりきったものだとされるが、それと対比するものとしてのテクストは、色々な受けとり方ができるものであることを示す。

 ほんとうはどういうねらいをもっているのかというのは、はっきりとしたところはうかがい知ることはできづらい。作者の意図というのは正確なところはわからないのはあるが、ねらいが無くて表現をするのではないだろうから、何らかのねらいはあるものだろう。

 表現のねらいがあるとすると、おもて向きの建て前とその裏にある本音に分けられるのはあるかもしれないが、いちおう建て前のねらいがあるとして、それとじっさいに表現されたこととの整合性がある。それがあるていど整合したものであるとして、そのねらいというのは上位のテクストとしてはたらく。

 上位のテクストであるねらいと、じっさいに表現されたテクストとがあって、その相互の効果がある。じっさいに表現されたテクストだけによって見るのでもよいが、いちおう上位のテクストもくみ入れておいたほうが、より正しい受けとり方をするための役には立つ。上位のテクストというのは主となるものではないが、それがあることによって、主となるものを受けとる受けとり方が変わってくるというのはあるだろう。よく変わるか悪く変わるかは定かではないが。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『タイトルの魔力 作品・人名・商品のなまえ学』佐々木健一 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美