表現と、それについての批判の声―よい表現だからこそ(だけど)批判の声が起きるということが可能性としてはある

 従軍慰安婦にまつわる作品をあつかう。その文化と芸術のもよおしに、批判の声がおきた。このもよおしには税金が使われることから、適していないことに税金を使うなという声があがっている。

 もよおしでは、従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定するような表現があったということなのだが、そうしたもよおしについて批判の声があがった。

 このことを見るさいに、もよおしの内容についてと、批判の声があがったこととを、分けて見ることがなりたつ。

 場合分けをしてみると、もよおしの内容がよいか悪いかと、批判の声があがることとあがらないこととは、必ずしも結びつかない。批判の声が一部から起きたのだとしても、もよおしの内容が悪いことには必ずしもならない。

 報道機関による報道になぞらえてみることができるだろう。報道機関が報道をした内容がすぐれているものだったとしても、一部から批判の声がおきることがある。それで報道をやめてしまったら、せっかくすぐれた内容だったのにも関わらず、それを報道することができなくなってしまう。

 報道でいうと、よい報道の内容だからこそ批判がおきるのだ、ということもまた中にはあるのだと言えるだろう。たとえ一部の人(権力者など)にとっては受け入れられないようなことであっても、そのことをもってして内容がよくないとは言い切れない。それとはちがい、毒にも薬にもならないような、どうでもよい当たりさわりのない報道の内容であれば、そこに批判の声がおきることはあまりない。無害だということで放っておかれることになる。

 極端な例かもしれないが、ガリレオ・ガリレイは、天動説にたいして地動説をうったえたときに、その当時の権力者などから強い反発を受けたとされる。強い反発を受けたからといって、地動説が誤っていたというのではないだろう。他から反発があったことと、説のよし悪しとは、切り分けて見ることがなりたつ。

 もよおしの内容についてでは、批判の声がおきたから悪い内容だとは決めつけられないし、逆によいとも決めつけることはできそうにない。そこについては、溜(た)めをもつことがいるのではないだろうか。溜めをもって見てみるようにする。もしもよおしがよい内容であるのだとすれば、税金を使ってやる値うちがあるものだから、やったほうがよい。それを取りやめてしまうのは、意味あいのあるものを人々に受けとってもらう機会をなくすことになる。

 参照文献 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』森達也 森巣博(もりすひろし)