世界文化遺産への登録をめぐる日本と韓国の対立―文化の政治性

 新潟県にある佐渡島の金山をめぐり、日本と韓国とで対立がおきている。佐渡島の金山を世界文化遺産に登録しようとしているのが日本だが、それに反発しているのが韓国だ。

 佐渡島の金山では、戦争のさいに、朝鮮半島の人たちが強制に労働させられていたという。そこから韓国は反発の声をあげている。

 日本と韓国との世界文化遺産への登録をめぐる対立についてをどのように見なすことができるだろうか。

 日本は国として近代化してきたのがあるが、その中において、正と負をかかえているのがある。近代化の中にふくまれている正と負のうちで、負のところと向き合わないようにしようとしているのが日本だ。負のところである、呪われた部分と向き合うのを避けている。呪われた部分がいろいろにあるのを日本につきつけているのが韓国だ。

 与党である自由民主党の政治家は、韓国が文句を言ってきているからといって、日本が引き下がるわけには行かないのだと言っている。これは表面によるあり方なのがあり、もっと核のところを見て行かないとならないものだろう。

 韓国が文句を言ってきているのは、あくまでも表面によることであり、その表面にたいして反応するのではなくて、表面でおきていることの深くにある核まで掘り下げるようにして、要因をいろいろに見て行く。核となる要因を見つけて行く。

 韓国が抗議の声をあげているのは、近代における帝国主義植民地主義と、植民地主義後(postcolonialism)のことが関わっているものだろう。日本がかつてにおいて行なっていた朝鮮半島への植民地の支配は、正当化することができづらい。植民地主義後においてそこが問われることになる。まだ片がついていないことなのである。呪われた部分だ。日本ではかつての植民地の支配などの負の歴史がどんどん風化していっていて忘却されてきている。

 歴史においては、日本の国を中心化することはできづらいし、日本の国が言っていることだからといってそれを総合化することもできづらい。日本の国が言っていることだからといってそれを最終の結論であるとはできず、あくまでも仮説にとどまる。中心化や総合化や最終の結論とすることができづらいのがあり、韓国が言っていることをくみ入れざるをえない。無視することはできづらい。

 韓国が言っていることをないがしろにすることはできづらいのがあり、西洋の哲学の弁証法の形でやって行くべきである。弁証法の正と反と合で、日本が正に当たるからといって、そこからすぐに合にもって行くようにはしない。韓国が反に当たるとして、その反をきちんと十分にくみ入れないとならない。日本のやり方は、反をくみ入れないで、正からじかに合にもって行こうとしている。

 日本と韓国とのあいだの歴史戦をやるのだとされているのがあるが、日本がまさしく正しいのだとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。韓国がまさしくまちがっているのだとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 日韓の歴史戦をやって行くのであれば、決疑論(casuistry)によるようにして、日本が一〇割正しいのでもなければ、韓国が一〇割まちがっているのでもないのだとして行く。日韓はともに、五割の正しさと、五割のまちがいを持ち、おたがいに開かれた中でやり取りをして行くようにしたい。日本が一〇割の正しさをもつことはできないことであり、日本は多かれ少なかれまちがうことを避けられない。

 立ち場や視点を置きかえてみると、かりに日本が韓国の立ち場であったとするのならどうだろうか。日本が韓国の立ち場であったとするのなら、韓国と同じように日本に文句を言っているはずだ。立ち場を入れ替えてみたらそう言えるのがあるから、どのようなあり方が倫理にかなうのかといえば、できるかぎり韓国の立ち場や視点をくみ入れて行くことだろう。

 日本は、日本の立ち場だけによるのではなくて、立ち場の反転の可能性の試しをしっかりとやって行かないとならない。日韓のおたがいの枠組み(framework)を持ちかえて、うまくおり合わせて行く。韓国がもっている枠組みを軽んじるのではなくて重んじて行く。日本の枠組みによるだけだと、倫理にかなうあり方にならない。

 いまいちど科学のゆとりをもつようにして見てみると、いまの時代は国を絶対化できずに相対化されざるをえない。グローバル化しているのがあり、国のあちらこちらに穴ぼこがたくさん空いている。多孔化している。それぞれの国がたがいに結びつき合っていて、複合の相互の依存になっている。世界において、国どうしの相互の依存性が深まっていっている。

 国の枠組みでものごとを見て行くのにしても、そこに安定した自明性があるとは言えなくなっている。国の枠組みは、それそのものが客観としてあるのよりも、物語としてあるものであり、大きな物語ではなくなっていて小さな物語になっている。むりやりに大きな物語にするのには無理がおきていて、またそこにまずさがある。国の枠組みを完ぺきに基礎づけることができなくなっている。

 国は絶対のものではなくて相対性によるものだし、国の歴史もまたそうである。人工の構築性があるのが国や、国の歴史だ。客観として、国や、国の歴史があるとは言えないのがあり、主観が入りこまざるをえない。

 本質主義として、個人よりも国のほうが先に立っているとは言えそうにない。国は、個人よりも先に立つような本質であるよりも、非本質のものだろう。非本質のものなのだから、国は、固定化されずに、どんどん反省される方がよく、日本からの視点だけではなくて、韓国からの視点などをどんどんとり入れて行く。視点を増やして行く。そのようにして、非本質さを浮き立たせて行きたい。

 科学のゆとりをもって、なにを目的としているのかを見て行けるとすると、世界文化遺産に登録することが目的であるのよりは、それは手段に当たるものだろう。目的は何かと言えば、歴史を想起することにあるのだとしてみたい。

 交通のあり方では、いまとかつてのいまかつて間において、かつてをきちんととり上げて行く。かつてにおいていろいろにおきた負のことがらを、いまにおいてきちんと思いおこす。世界文化遺産に登録することよりも、歴史を想起することのほうがよほど重要だ。

 世界文化遺産に登録することには熱心なのが日本だが、そのいっぽうでいまとかつてのあいだのいまかつて間をきちんと見て行こうとするのはほとんどできていない。そこができていないことが、世界文化遺産への登録をめぐる日韓のぶつかり合いによくあらわれ出ている。

 帝国主義をやっていたのが日本の国だが、いまだにそれが行なわれているのがあり、帝国主義による加速度によって、世界文化遺産への登録をやろうとしている。科学のゆとりが欠けている。帝国主義による加速度に、待ったをかけているのが韓国であり、韓国による言いぶんを聞くようなゆとりを持ちたい。自民党岸田文雄首相の言うところの聞く力だ。

 韓国の言いぶんを日本が受けとめるようにしてみれば、日本のあり方には、あちらこちらに穴ぼこがたくさん空いているのがわかってくる。その穴にフタのおおい(cover)がしてある。見えなくさせられている。フタがしてあることをさし示して行き、フタを引っぺがして行かないとならない。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『維新の影 近代日本一五〇年、思索の旅』姜尚中(かんさんじゅん) 『思想読本四 ポストコロニアリズム姜尚中(かんさんじゅん)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける)