ヒトラーに例えることと、反証主義―見解(view)と、それへの批判

 日本維新の会の関係者は、ヒトラーを思いおこさせる。そう言ったのは、野党の立憲民主党菅直人元首相だ。ヒトラーに例えたことで、菅元首相は維新の会から謝罪をせまられている。

 国際法や国際的に、ヒトラーに例えることは許されることではないのだと維新の会は言っている。ヒトラーに例えることの是非についてをどのように見なせるだろうか。それについてを反証主義(falsificationism)の点から見てみたい。

 維新の会の関係者をどのように見なせるか。その問題がまずあって、それにたいする一つの見かたとしてヒトラーに例えたのが菅元首相だ。その例えは適したものではないとしているのが維新の会であり、批判を行なっている。

 反証主義をいった哲学者のカール・ポパー氏によるポパー図式(問題解決図式)では、こうした流れになっている。問題(problem)、さしあたっての試しの見なし方(tentative theories)、批判(elimination of errors)、新しい問題(problem)の流れだ。P の一、TT、EE、P の二だ。

 ポパー図式によってみると、菅元首相によるヒトラーの例えは、第二の段階に当たる。維新の会が批判を行なったのは、第三の段階に当たる。

 菅元首相がヒトラーの例えをしたのは、あくまでもさしあたっての見なし方にとどまる。絶対に確かな見なし方とは言えないから、他からの批判にたいして開かれていることがいる。閉じてしまわないようにすることがいる。閉じてしまうと、まったくまちがうことがない教義(dogma、assumption)や教条と化す。

 維新の会が批判をしているのは、菅元首相の言ったことが開かれたものであるためにいることではあるが、そのいっぽうで、維新の会が言っていることもまた開かれたものであることがいる。閉じているものではないことがいる。

 維新の会が言っていることを、ポパー図式に当てはめてみたい。維新の会の関係者をヒトラーに例えることはして良いことなのかどうかの問題がまずあって、それにたいするさしあたっての見なし方を維新の会は行なった。国際法や国際的にヒトラーに例えることはあってはならない。国際的に非常識だとしている。

 ポパー図式の第三の段階である批判を投げかけることを、維新の会が言っていることにたいしてしてみたい。批判を投げかけることが許されないのであれば、維新の会が言っていることは開かれていないことになり、閉じてしまう。教義や教条と化す。

 はたして、維新の会が言っていることはふさわしいことなのだろうか。そこには少なからず疑問符がつく。維新の会が言っていることを、そのまま丸ごとうのみにはできづらい。

 維新の会の関係者をヒトラーに例えたのは、菅元首相だけではなくて、作家で元政治家の石原慎太郎氏もまたやっていたようである。石原氏は、維新の関係者をヒトラーに例えて、ヒトラーのようにすぐれているのだとしていた。ヒトラーに悪い含意をこめるのではなくて、よい含意をこめていた。国際的には、菅元首相よりも、石原氏のほうがまずいだろう。

 ほかに、与党である自由民主党谷垣禎一(さだかず)氏も、維新の会の関係者をヒトラーだと例えていた。悪い含意をこめていた。

 ヒトラーに例えることは、菅元首相だけではなくて、いくつか行なわれているものだから、菅元首相だけが悪いとは言えそうにない。普遍化できない差別にならないようにして、二重基準(double standard)がおきないようにしたい。

 どうしてヒトラーに例えることが行なわれることになるのだろうか。そこにはたらく動機づけ(incentive)はどういったものなのだろうか。動機づけとしては、ヒトラーは世界において有名で、多くの人が知っていることがある。たんに、ある政治家が悪いと言うよりも、ヒトラーを持ち出して、それになぞらえたほうが、わかりやすくなる。想像がわきやすい。たんに悪いのだと言うよりも、より伝わりやすくなる。それなりのうったえかけの衝撃性がある。あることをあることに見立てられる。省力性や経済性があり、労力をはぶける。

 動機づけとしては、ヒトラーに例えるのは、それなりの効用や利点があるから、それが行なわれることになるのだと言えそうだ。よいか悪いかの道徳の点から見るのはわきに置いておけるとすると、動機づけとしては、よくも悪くも力(might)をもっている。力を持っているから、そこに引きつけられてしまいやすい。

 力をもったものに引きつけられるのが悪いとすると、その力が悪用されることになるのがある。力を持ち、それが悪用されると、多くの損や害がおきかねない。思想家のトマス・ホッブス氏は、悪人についてこう言っている。悪人とは、力をもった子どもである。子どもは力をもたないからそれほど危なくはないが、力をもった子どもは危険性が高い。

 力が善用されればよいが、それが善用される絶対の保証はない。そこに危なさがつきまとう。力をもったものにまひをさせられて、距離感がとれなくなると危なくなる。ヒトラーは人々をまひさせて、距離感を失わせた。距離をとれなくさせた。

 力をもった上の者が、人々をまひさせて、距離感を失わせる。上の者は、超越の他者(hetero)になる。他律(heteronomy)のあり方になる。超越の他者によって人々が動かされるあり方だ。そこに欠けているのが自律性(autonomy)だ。ある政治家が、超越の他者のようになっているのだとしたら、それをヒトラーに例えるのはまったくまちがったことだとは言えないかもしれない。まったく根も葉もないことだとは言えないところがある。

 超越の他者は、権威化されることになり、まったく疑われることが行なわれなくなる。言うことややることがすべて正しいのだとされて、頭から信じられることになる。どのような人であったとしても、まちがうことはつきものだが、あたかもまったくまちがわないのであるかのようによそおわれる。いつでも正しいとされることになり、じっさいとはかけ離れた虚像としての人物の像が形づくられる。さっかくである。

 ヒトラーがやったように、人々をまひさせて、距離感を失わせることにたいして、気をつけるようにして行きたい。まひによって距離がとれなくなるのを防ぐには、反証主義によるようにしたい。たとえ菅元首相が言っていることであったとしても、また維新の会が言っていることであったとしても、どちらにしても開かれているべきである。閉じてしまい、教義や教条にはならないようにする。

 菅元首相であろうとも、維新の会であろうとも、言っていることをそのまま丸ごとうのみにはしないようにする。ヒトラーが言っていたことは、教義や教条となり、閉じたものになった。開かれていなかった。言ったことがそのまま丸ごとうのみにされた。丸ごとうのみにさせられた。自発の服従の主体がつくられたのである。

 どうあるべきかの点においては、ヒトラーに例えるべきではないのであるよりも、反証主義によるべきだと言えるだろう。菅元首相が言っているからそれが絶対に正しいことになるのではないのと同じように、維新の会が言っていることだからそれが絶対に正しいことになるのではない。菅元首相が言っていることや、維新の会が言っていることには、どちらにしても、そこに意図性や作為性や政治性があることはまぬがれない。同じ穴のむじなといったところがないではない。

 どちらかだけが絶対に正しく、もう一方が絶対にまちがっているとは言えそうにない。あまりどっちもどっち(どっちもどっちだ)のあり方に持って行くべきではないかもしれないが、一つだけではなくていろいろな理屈がなりたつのがあり、それも一つの理屈(tu as raison)だと言えるのがある。

 それも一つの理屈だとして、いろいろな理屈をよしとすることがなかったのが、ヒトラーによるナチス・ドイツのあり方だろう。ヒトラーによる理屈だけしかよしとはされなかった。一つの公式の理屈だけしかよしとされないのだと、全体がまちがった方向に暴走して行くおそれがおきてくる。一つの理屈には、限界がつきまとうのがあり、まちがいなく正しいとは言えないのがある。どのような理屈であったとしても、そこに反証の可能性(falsifiability)がないとならない。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『うたがいの神様』千原ジュニア 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ