原子力発電所の運営に見られる、危機管理の欠如と無責任体制

 裁判では、福島第一原子力発電所事故についての電力会社の責任が問われた。それで、東京電力の旧経営陣の三人には判決で無罪が言いわたされた。

 原発事故がおきる前までは、原発安全神話によって安全だということで動かされていた。原発は安全だということで、大量の広告費を使って、芸能人を起用して広告を打っていた。それが原発事故がおきることによってそれまでに通用していた安全神話が崩れた。

 原発について安全神話がとられていたさいに、原発の危険性について、危機管理ができていなかったことはまぬがれないのではないだろうか。原発の安全対策というよりは、最悪のことがおきたときにどうするかという危機管理に甘さがあって、それが欠けていたのだ。

 原発にとっての危険性に自然災害があるのだとすると、その自然災害を大したものではないのだと見なすのは、きちんとした危機管理をすることにはつながりづらい。自然災害について、それを最悪で最強なものだとすることによってはじめてまともな危機管理をすることにつながる。

 あらゆる自然災害の危険性までをすべてくみ入れて行ったら、原発を動かすことができなくなるというのはあるだろう。現実の経済性とのかね合いはあるにしても、まあ大丈夫だろうとか、そこまで大きなことは起きないだろうとかいうのだと、車の運転でいえばだろう運転であって、かもしれない運転とは言えない。車の運転でいえば、事故を避けるためには、だろう運転ではなくて、かもしれない運転をするべきではないのだろうか。

 原発は大きな利益をもたらすのとともに大きな危険性を抱えこむことになる。そうであるのなら、危険性を軽んじるのではなくて、それを自覚することがいるが、その自覚の必要性が安全神話へとすり替わってしまった。責任の所在があいまいとなって、無責任体制となっている。

 参照文献 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹 『快楽上等! 三・一一以降を生きる』上野千鶴子 湯山玲子(ゆやまれいこ)