反日や売国と愛国のよし悪し―よいと悪いを決めつけないようにして見られる

 反日売国と、愛国がある。この二つは、方向性のちがうものだとされるが、この二つのどちらともを、固定化させないで見ることがなりたつ。

 反日売国は悪いもので、愛国はよい。そう決めつけてしまえるものだろうか。悪いものとよいものというふうに、固定化して見なすのは、中立で客観によるというよりも、どちらかというと主観による見なし方だ。

 人を殺すのはよくないといったように、大かたの人が悪いことだと見なすことはあるのは確かだが、それについては、命に価値があるということがもとになっているので、命に価値はないとする人には響かないことがある。たとえば原理主義の宗教の信者(テロリスト)などがいる。

 表現されたものについてでは、それを反日売国と見なすのがあるとして、そう見なすのが必ずしも適してはいないことがある。決めつけになって、固定化した見かたを当てはめてしまっている。

 表現されたものが、反日売国であるから悪いというよりも、むしろ一面的な見かたになってしまっていることが悪いことがある。決めつけてしまっていることで、一面的な見かたが固定化されてしまう。

 愛国ということもまた、一面による見かたにすぎないことがあるから、別な面を見るようにして、色々な角度から見て行かないとならない。愛国とされているものであっても、ちがう角度から見れば、愛国にはなっていないことがあるだろう。そう思いこんでいるだけにすぎない。

 反日売国だと見なされるからといって、それが悪いことだとは限らない。このさい、反日売国だと見なされるものを頭から悪いことだとは決めつけないようにするほうがよいし、なおかつ反日売国によるものでしかないのだとは決めつけないようにも気をつけることがいる。愛国ということについても、愛国と見なされているからよいというふうには言い切れない。じっさいに愛国にはなっていないということがないではないし、それを固定化することは適していないことが少なくない。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』斎藤慶典(よしみち)