憲法の改正の議論における、土台と主題―首相は、憲法を改正することを土台にしてしまっている

 野党にたいして、憲法の改正の案を出すことをうながす。憲法の改正についての議論を行なうことを野党に求める。それで国民の期待にこたえられるような活発な議論をすることをのぞむと首相は言っていた。

 首相によると、与党である自由民主党はすでに憲法の改正のたたき台となる案を出しているとのことだ。それで、野党にも憲法の改正の案を出すことをしてほしいということを首相は述べているが、それだと、憲法の改正の案を各党が出し合って、どの案にするのがのぞましいのかを議論し合うことになってしまう。

 憲法の改正の案を各党が出し合って、どの案にするのがのぞましいのかを議論し合うのなら、その議論というのは、憲法の改正をするのがよいという前提条件をとっていることになる。首相が言っていることは、憲法の改正をするのがよいということを隠れた前提条件としているのである。それは誠実で開かれた議論のあり方だとは言えないものだ。

 憲法の改正については、大きく見ても改正派と護憲派があるのだから、憲法の改正をするのがよいという派と、しないほうがよいという派に分かれている。ちがう派に分かれているので、憲法の改正をするのがよいという議論の前提条件はとらないようにして、それを主題にすることがいる。

 憲法の改正をするのがよいということは、すべての人がそうだと見なしているほどには共有されていない。すべての人がうなずけるものではない。うなずける人が少なからずいるというのにとどまっている。

 憲法を改正したほうがよいというのは、改憲派からすればうなずけるものではあるが、護憲派においてはまたちがう。改憲派からすれば護憲派を批判できるのとともに、護憲派からすれば改憲派を批判することができる。お互いに批判し合うことができるということは、憲法を改正するほうがよいということが、すべての人がうなずけるというほどにはなっていないことをあらわす。

 憲法の改正をするのがよいのか、と問いかけられるのだとすれば、そうするのがよいということを、まったくもってまちがいがないというほどには答えとしては言えないのではないだろうか。

 改憲派からすれば、憲法を改正しないことに(つまり憲法をそのままにすることに)問題があるのだということになるだろうが、それとともに、護憲派からすれば、憲法を改正することに問題があるということになる。もしくは、改正しようとする案の中に問題がある。

 憲法とはじかには関わらないが、憲法のほかにもたくさんの課題を多く抱えている日本の社会にあって、必ずしもみんなが納得できる一つの答えを導き出せるとは限らないものである憲法の改正の議論に、限られている政治の労力をつぎこむことがふさわしいことなのかというのがある。優先順位からいって、憲法の改正の議論をすることはそこまで高いものなのだろうか。

 かりに憲法の改正の議論をするにしても、もっとものぞましい大局最適(gobal optimal)となる解にたどり着けるとは限らず、局所最適(local optimal)化のわなにおちいってしまうおそれは低くはない。局所最適化のわなにおちいらないようにするためには、そもそも憲法の改正の議論に労力をつぎこむことが、いまの日本の社会において本当にふさわしいことなのかを改めて見ることがいるし、議論をするさいには開かれた中で水かけ論にはならないように慎重に賢く議論をしないとならない。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之