与党と関係していたツイッターのアカウントから浮かび上がってくる、日本の報道の世界のまずさ

 日本のテレビの世界そのものが Dappi(ダッピ)だ。れいわ新選組山本太郎代表はそう言っていた。山本代表が言っていることはうなずけるものである。

 与党である自由民主党とつながりがあることがわかったのが、ツイッターのアカウントの Dappi だが、そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 れいわ新選組の山本代表が言うように、Dappi とテレビの世界には類似性があると言える。また、テレビの世界だけではなくて、新聞などにも Dappi のようなところがあり、一部に類似性がある。

 与党である自民党とつながりがあることがわかったのが Dappi だが、その Dappi に見うけられることとして、冷笑主義(cynicism)があげられる。権力に寄生するものだ。権力の奴隷であり、権力のたいこ持ちである。

 権力に寄生する冷笑主義は、Dappi にかぎったことではなくて、テレビの世界に広く見うけられる。テレビの世界だけではなくて、新聞にも見うけられる。報道の世界が、全体として Dappi の色に染まっていっていると言える。

 もともと日本の国は、国のもっている性格として Dappi っぽさをもつ。国が Dappi っぽいのがあるので、愛国だと Dappi っぽくなりやすい。反 Dappi だと反日売国だとされやすい。

 政治の権力を対象化せずに一体化しているのが Dappi だが、これは Dappi だけにかぎらずテレビの世界や新聞の世界にも見られるものである。Dappi のあり方は、日本の報道の世界を象徴しているのがあり、政と報や官と報がゆ着しているあり方をしめす。

 政と報や官と報がゆ着していて、それらのあいだに暗黒の回廊がある。人目には見えづらい隠れた交通の行き来がある。政報複合体や官報複合体となっている。Dappi だけにかぎらず、報道の世界がそうなっているのがあり、それを改めないとならない。

 Dappi だけが悪いのだとはいえず、Dappi が象徴している報道の世界に悪さがあると言える。政報複合体や官報複合体をなくすようにして、政と報や官と報がゆ着しないようにして行く。

 報道の偏向がきらいだと言っていたのが Dappi だが、かく言うところのものである Dappi はどうしなければならなかったのだろうか。報道の内容の偏向がよくないとするのではなくて、報道機関が国家のイデオロギー装置であるところをまずいと見なすべきだった。報道機関が国家のイデオロギー装置になっていて、政治の権力に利用されてしまっているところに悪さがある。

 差別化や差異化をしているようでいて、じっさいのところは偏向した報道をしていると見なしていたほかの報道機関と同じだったのが Dappi だろう。同じ穴のむじなだった。ほかの報道機関と差別化や差異化できていなくて、類似性によっていた。むしろ、国家のイデオロギー装置の性格がより強いのが Dappi だった。冷笑主義が強くて、権力に寄生するのが強かった。

 Dappi が言っていたように、偏向する報道がきらいだとして、内容が偏向している報道が悪いと言えるよりは、むしろ Dappi の逆をやれば正しくなりやすいだろう。Dappi を見習うのではなくて、その逆や反対をやればよいのがあり、Dappi のあり方と差別化や差異化をして行く。Dappi の逆や反対とは何かといえば、かんたんにいえば政治の権力をしっかりと批判をして行くことである。中心と距離をとって、中心を批判して行く。

 参照文献 『共謀者たち 政治家と新聞記者を繋(つな)ぐ暗黒回廊(かいろう)』河野太郎 牧野洋(よう)