ある方がよいとは言い切れず、無いほうがよいともいえる政党―かつてとはちがい、いまは無くてもよい

 野党は批判ばかりだからよくない。野党である立憲民主党などは、批判ばかりしているからよくないと言われるのがあるが、そのことについてをどのようにとらえられるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるけど、その中で、ひとまずは野党のことは置いておいて、与党である自由民主党を見てみたい。

 ふつうであれば、野党が批判をするさいに、与党である自民党がやることや言うことをとり上げることになる。自民党が政党としてあることを前提条件にしたものだ。ふつうのあり方とはややちがい、自民党が政党としてあることを前提条件にはしないで、自民党を批判することもなりたつ。自民党が政党としてあることを自明とはしない。

 政党としてあることを自明とはしないことから自民党を批判するさいに、政党としての存在理由を自民党は失っているのをさし示せる。もしも政党としての存在理由があるのであれば、その政党はあってもよいわけだけど、存在理由を失っているのであれば、その政党は無くてもよい。無いほうがよい。

 なぜ自民党が政党として作られたのかといえば、その存在理由として、戦後に世界の東西の冷戦があって、共産主義国を日本の敵だとしていたのがある。日本が共産主義になるのを防いで、日本が自由主義や資本主義でありつづけることを目標にしていた。

 東西の冷戦はすでに終わってしまっているので、自民党の政党としての存在理由はなくなってしまっている。存在理由がなくなっているのだから、党を解党するべきだった。解党しないでいつまでも政党としてありつづけているから、日本の国の政治がおかしなことになってしまっている。いまだに古い東西の冷戦のときの枠組み(framework)が一部において取られつづけてしまっている。

 理想論としては、自民党は解党していたほうがよかったのがあるが、それをせずにいまだに政党としてありつづけている。現実論として見たら、自民党はいまだにありつづけているから、その事実を否定するわけには行かないのはある。現実にあるものについてを無いと言うわけには行かない。

 日本の政治において、ねじれがおきてしまっていて、古い枠組みがいまだに残りつづけていることによって、いまの時代のあり方と合わなくなっているのがある。古いものと新しいものとが混ざり合ってしまっていて、ねじれがおきている。そのことのもとにあるのが、自民党が政党としていまだにありつづけていることだ。ねじれを引きおこすもとになっている。もともと日本の国はねじれているのがあるから、もとからあるねじれのあり方に適合しているのが、それそのものもまたねじれている自民党だとも言える。

 理想論からすると、自民党が解党していて、政党としてはもう無くなっていて、ほかのいろいろな政党どうしで日本の国の政治をやっていったほうが、すっきりとしてわかりやすい。たとえ頼りないのだとしても、頼りない政党どうしで民主主義をしっかりとやって行く。ねじれを少なくすることができる。

 現実論としては、いっけんすると頼りになりそうであったとしても、自民党に頼り、自民党が与党になると、ねじれがおきてしまう。わなにはまりこむ。もともと日本の国がもっているねじれと合わさることによって、すっきりとしなくなり、政治のあり方がわかりづらいものになる。ねじれが温存されつづけてしまう。

 東西の冷戦の中で、日本が共産主義になるのを防ぐことが自民党の存在理由だったから、冷戦が終わったいまにおいては、自民党が政党としては無いほうがものごとがすっきりとしてわかりやすい。もしくは、自民党がまっとうな新しい存在理由を持つようにするのもありかもしれないが、それができていないでいまにいたっている。まっとうな新しい存在理由を持てていないので、かつてよりも劣化していて、集団としてやたらに不祥事をおこしつづけている。集団の中に自浄の作用がはたらいていない。

 参照文献 『劇場政治の誤算』加藤紘一(こういち) 『変われない組織は亡(ほろ)びる』二宮清純(せいじゅん) 河野太郎 『ねじれの国、日本』堀井憲一郎 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)