桜を見る会とその前夜祭と、それを国会においてとり上げることの是非―理想論と現実論で見てみたい

 桜を見る会とその前夜祭について、国会においてとり上げるべきなのかどうか。これについてはさまざまな声が上がっている。

 これについてを、理想論と現実論に分けて見てみたい。理想論としては、国会においてとり上げられて、できるだけすみやかに問題が片づくようであるのがのぞましい。そのように現実に動いているのかというと、とてもそうとは見なせない。

 理想論とは別に現実論として見ると、国会でとり上げてもあまり意味がないとかしかたがないというのは言えないではない。というのも、いまの首相による政権がまんまと逃げ切ってしまうことになる見こみが低くはないからだ。最終として逃げ切られてしまうのであれば、いぜんの政権の疑惑と同じように、時が経つとともに風化されて行ってしまう。

 現実論から見てみれば、桜を見る会とその前夜祭を国会においてとり上げたとしても、あまり意味がないところがあるかもしれない。その意味のなさというのは、あくまでも限定的な見かたからしてそうだというのにとどまっているので、別な見かたからすればまたちがう見かたがなりたつ。

 桜を見る会とその前夜祭が、どういう意味を持っているのかというのは、色々な見かたから見て行けるものだ。必ずしも現実論からの意味によるのだけではない。理想論からも見て行かないとならない。現実からいったん離れた上で、一般的に政治がどうあるべきかや、どうあるべきではないかという点からも見て行くことがいるものだろう。

 理想論ということでは、色々な角度からの見なし方がなりたつ。桜を見る会とその前夜祭を国会においてとり上げるべきかどうかだけではなくて、どのようにそれが国会において議論されるべきかや、どのようにしたら効果や有効性をもって民主的に議論がなされるのかがある。

 国民には知る権利があるのだから、よくわからないところでひどくあいまいな形で政治の決めごとややり取りがなされていたら、国民が知る機会を失いかねない。日本の政治では空気によってものごとが決めることが行なわれがちで、それが悪用されることになるとまずい。いざとなったら誰も責任をとらない無責任体制となってしまう。

 現実から大きく離れた理想であってはまずいが、どういうことが理想としてのぞましいかや、どういうことがのぞましくないのかは、たんに国会においてどういうことをとり上げるべきかにとどまるものとは言えそうにない。色々な角度からのさまざまな理想があって、それと現実とのあいだの隔たりがあって、それをどうするのかがある。それらを総合に見て行くことができればのぞましい。

 現実において意味があるかないかや、有効かどうかというのは大事なことではあるが、それだけではなくて、現実と理想との隔たりが大きくなりすぎるとまずいのがある。そのあいだが離れすぎてしまうと、現実としてはどうかということとは別に、いずれにしてもまずいとかおかしいということになってくる。

 たとえ政権がまんまと疑惑の追及の手から逃げ切ることができたのだとしても、それは客観として問題が無くなったこととはまた別なのではないだろうか。そこから派生してくるまた新しい問題もおきてくる。集団の問題である社会的矛盾が片づかないままになって、一部の者だけがかたよって利益を得るようでは、自由民主主義における包摂性と競争性の点からしておかしいだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『社会的ジレンマ山岸俊男政治学の第一歩』砂原庸介 稗田健志(ひえだたけし) 多湖淳(たごあつし)