ソーシャル・ネットワーキング・サービスである SNS の使い方―かくあるべき SNS とかくある SNS

 ほんらいウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービスである SNS は、デマや嘘を流すことに使うものではない。みんなではげまし合ったり助け合ったりするために使うものである。会見で首相はそうしたことを述べていた。

 たしかに、首相が言うように、SNS がデマや嘘を流すことに使われるのはのぞましいこととは言えそうにない。それでいうと、政権に関わっている組織が、政権に都合のよいような情報を大量に流しているとされるのがある。政権が間接として情報を誘導しているのである。これそのものがただの風聞であるかもしれないが、やっている形跡がある。政権が自分たちに都合のよい情報を意図して大量に流しているのだとすると、けっして見すごしてよいこととは言えそうにない。

 民主主義の点で SNS がどのように使われるのがふさわしいかでは、色々な見かたができるだろうが、一つには社会のさまざまな問題がとり上げられることがいる。

 国の政治の場である国会では、ろくに問題がとり上げられていない。問題のとり落としが多い。とり上げられるべきものがとり上げられていなかったり、とり上げられているとしてもきわめて不十分だったりすることが少なくないから、放ったらかしになっていることが多くある。これは国会での議論が空洞化していることから来ているものでもあるから、国会が政治においてとても重要な場だというのはまちがいはないが。

 国の政治の場である国会だけで政治が十分に行なわれているとは言いがたいから、そこでとり落とされる色々なことをすくい上げる場として SNS をとらえることがなりたつ。それだけがすべてではなくて、もっと色々な使い方があるのはまちがいないが、民主主義の点でいうと、社会の中にある色々なまずいことがとり上げられることは益になる。

 公共性が SNS にあるとすると、たった一つだけの声ではなくて、色々ないくつものちがった声が投げかけられることがよい。政権がやっているとされるように、組織として集団でたった一つの声だけを大量に流して、世の中を一つの方向に誘導しようとするのではなくて、自発として色々なちがった声がおきてきて、やり取りが行なわれれば、色々な声に接することができる。

 一つの声だけだと、公共性としては不十分であり、そこに誤りである可びゅうがあることは多かれ少なかれまぬがれないのがあるから、色々に広がりがあったほうが全体がまちがった方向に進む危険性は少しは少なくなる。色々に広がりがあったほうがよいとはいっても、ヘイトスピーチなどの例外はあるのは確かだが。

 参照文献 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ)