桜を見る会とその前夜祭を、紛争としてとらえてみたい―紛争がいたずらに長引くのはよくないことではあるが

 桜を見る会とその前夜祭のことが、国会でとり上げられている。このことについてを紛争であるととらえてみたい。

 桜を見る会とその前夜祭のことが国会でとり上げられるのを紛争だとととらえられるとすると、それがいつまでも片づかないで長引くのは、紛争が引きつづくことをしめす。

 紛争がいつまでも引きつづくのは、よいことだとは言えそうにない。いつまでも片づかないで長引くことは、よいこととは言えないだろう。

 ほかによくないこととしては、時が経つとともにうやむやになってしまったり、風化してしまったり、本当はどうだったのかが明らかにされないままに尻すぼみになってしまったりすることではないだろうか。

 紛争において、力をより多く持つ者が勝ってしまう。力にものを言わせて強引に勝ちを得る。そうしたことになるのはのぞましいことだとは言えそうにない。力をより多く持つ者が正しいとは限らないからだ。

 紛争をできるだけ速く片づけることは大事だが、それとともに、どのようにしたらより正しくとらえられるのかというのもまた大事なことだろう。より正しくとらえて行くためには、時の政治の権力の言うことを無条件にそのままうのみにするのはふさわしいこととは言えそうにない。そこについては、できるだけきっちりと見て行くようにして、時の政治の権力が言っていることなのだから、それはまちがいなく正しいことなのだというふうにはしないようにしたい。

 もしも、時の政治の権力が言うことなのであれば無条件にすべて正しいのだとすれば、それは戦時中の大本営発表をぜんぶ正しいことだと受けとるのに通じる。それはまちがっていたことがあとで判明した。そのことをくみ入れるとすると、ときの政治の権力が言うことは、そのままで正しいことつまり白いとは見なせず、まちがっているつまり黒いことが確率として少なくないし、灰色だとも受けとれる。

 紛争をできるだけ速く片づけたほうがよいというのは、たしかにその通りではあるけど、そうして行くためには、何がそれをさまたげているのかを見ることがいる。紛争がおきていることそのものが一つの問題であるが、それが速く片づかないということもまた一つの問題なのであって、その問題がどういうことでおきてしまっているのかや、どういう複数の要因があげられるのかを見て行ける。

 だれが、紛争を速く適切に片づけることをさまたげているのかというと、それは紛争の当事者の一つといえる野党であるとは言えそうにない。まったくもって野党が善そのものとまでは言えないだろうが、不誠実なふるまいをしつづけているのはいまの政権や首相であるから、そこに悪さがあるのだと見なしたい。

 あの手この手を使って、政権や首相は追及から逃れようとしつづけている。そこで用いられる手は、悪質や不正なもの(またはそのぎりぎりのもの)が少なくない。誠実なふるまいをしているとは言えそうにない。そこからわかるのは、紛争において、政権や首相は、自分たちが力を持つ者であるのにも関わらず、用いている手もまた悪いものが少なくないことである。これは正当化できることだとは言いがたい。

 ことわざでいう、窮鼠(きゅうそ)猫を噛むでいうと、ねずみのほうではなくて、自分が強いのにも関わらず、またなおかつ自分が悪いことをした疑いが濃いのにも関わらず、猫が悪い手を使っているのだ。その猫にたいして、だれが(どのねずみが)その首に鈴をつけに行くのかが試されているといってよいだろう。

 政権や首相が紛争の中で用いている手に悪いものが少なくないというのは、ないがしろにすることができないくらいにおかしいことなのではないだろうか。そこの問題は決して小さいものだとは見なせないが、それは人によってとらえ方がちがってくるのもあるから、政権のことをよしとするのであれば、数々の悪い手についてを大目に見ておとがめなしとするとらえ方もまたあるのかもしれない。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹 『考える技術』大前研一 『正しく考えるために』岩崎武雄