権力チェックと、儒教による理と気―韓国語で言われるタジダ(問いただす)とケンチャナヨ(いい加減)

 権力の監視を行なう。これは、儒教の理と気でいうと、理に当たるものだ。

 韓国語では、タジダ(問いただす)とケンチャナヨ(いい加減)があるとされるが、これは理と気に当たるものである。ケンチャナヨは、日本の九州地方の方言で言われる大概大概(てげてげ)に通じる。

 政治の時の権力は、あらかじめ権力チェックによって問いただされることがわかっているのだから、それを織りこんだ行動をとって行かなければならない。

 いまの首相による政権は、権力チェックで問いただされるのをあらかじめ織りこんだ行動をしていないことが多い。それで、いざ権力チェックが行なわれて問いただされると、いい加減さによって強引に逃げ切ろうとする。

 いまの政権は、やっていることそのものがいい加減であることが少なくない。なおかつそれを権力チェックで問いただされたさいに、いい加減な説明によって乗り切ろうとする。もとのいい加減さのうえにさらにいい加減さが多重に重なって、ものごとがいつまでも片づかないままとなる。

 いまの政権のいい加減さが一〇〇パーセント悪いとは言い切れないし、権力チェックを行なうことがすべて一〇〇パーセント正しいとも言い切れそうにはない。その点については、理と気のつり合いや兼ね合いをとることの難しさがあるが、一つには、理と気の二つが互いに離れすぎてしまうのはまずいとされている。理気双全だ。

 あまりにいい加減になりすぎてしまい、理が無化されてしまうとまずい。理による権力チェックが無効化されてしまう。それが無意味化されることになると、いい加減さがはびこりすぎることになる。

 よい意味で適度にいい加減であるのなら、それはそれでよいところがある。潤滑油のようにはたらく。その反対にあまりに厳格主義(リゴリズム)になりすぎると、機械のような無味乾燥した杓子定規な当てはめになりかねない。非人間的な冷たさによって、政治の時の権力をただ頭ごなしに批判や否定すればよいというのではないかもしれないが、引きしめることがなくなれば、たるみすぎることになる危なさがある。

 引きしめることが行なわれなくなってたるみすぎてしまうと、理と気が離れてしまうことになることで、理と気のあいだの相互作用が働かなくなる。それで理の無意味化がおきてしまう。それを改めるには、きちんと問いただすべきは問いただすようにしたい。

 何がよくて何が駄目なのかをはっきりとさせるようにしたいものである。駄目なことだとされていることであっても、よいことなのだ、となってしまうと、よいことと駄目なこととの区別がなくなってくる。これは、理である禁止水準と気である許容水準との関係が狂うことをしめす。この狂いがあまりにもひどくなりすぎると、気である許容水準がどんどん引き下がって、ほんらいなら許されるべきではないことが(特別に)許されることになる。理と気がたがいに離れすぎてしまう。

 気によるいい加減さのほうが楽なのであったとしても、理と気が共倒れしてしまうのを避けるためには、理を見直すようにして、たとえ多少の面倒さがあるのだとしても、理によって権力チェックを行ない、しっかりと問いただして行くことがのぞまれる。

 参照文献 『韓国人のしくみ 〈理〉と〈気〉で読み解く文化と社会』小倉紀蔵(きぞう) 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)